習志野の歴史と年表
旧石器時代〜弥生時代
習志野市内では、今から2万数千年前の旧石器時代から人類の痕跡が確認できます。このころは、かなり寒冷な気候だったようです。海面は現在より100メートル以上低く、東京湾は陸地でした。人々は一カ所に長期間住むことはなく、短期的な滞在と移動を繰り返しながら狩猟と植物採集により食料を得て暮らしていたと考えられています。谷津貝塚という遺跡の市立第一中学校周辺の地点で、この時代の石器や火をたいた跡が発見されています。
No.126 平成23年7月15日号 2万年前の人たち『谷津貝塚埋蔵文化財発掘調査報告書1』の刊行
縄文時代になると、気候は温暖化していきました。人々は一定の場所に比較的長期間住み着くようになります。地面を掘りくぼめた竪穴住居で暮らしていました。市内では、縄文時代早期の花咲新田台遺跡をはじめとして、実籾3丁目遺跡・実籾霊園遺跡(前期)、藤崎堀込貝塚(中期~後期)、藤崎3丁目南遺跡(後期)などで集落の跡が見つかっています。縄文時代は、土器づくりがはじまった時代でもあります。遺跡からは縄文土器や石器など、当時の暮らしを物語る多くの遺物が出土しています。また、人々が食用にしたあとの貝を廃棄した貝塚が作られました。藤崎堀込貝塚は、貝塚の中でも規模の大きなもので、千葉県指定文化財(史跡)に指定されています。
弥生時代は、大陸から伝わった水稲耕作を中心とする農耕、鉄器・青銅器などの使用が始まり、支配者層が生まれ、各地域で政治的なまとまりができるなど、社会が大きく変わった時代ですが、この時代の遺跡は市内では今のところ確認されていません。
古墳時代〜平安時代
古墳時代は、弥生時代に生まれた各地域の政治的なまとまりの統合が進んでいった時代です。支配者たちの大型の墓である「古墳」が造られたのがこの時代の特徴です。市内には、鷺沼城址公園周辺に鷺沼古墳という古墳時代後期(6世紀後半)の古墳群があります。このあたりを支配した豪族の墓であると考えられます。もう少し古い時代では、実籾霊園遺跡などで石製模造品の工房の跡が見つかっています。石製模造品とは、やわらかい石で勾玉などの形を小さく模造したもので、副葬・祭祀に使われるものです。
奈良時代・平安時代には、JR津田沼駅の南側の台地を中心として集落の跡が確認されています。特に、平成19年度から平成25年度にかけて本調査が実施された(整理作業を含む)谷津貝塚では、7世紀末から10世紀前半にかけての拠点的な集落の跡が明らかになりました。二百数十年間に建てられた建物跡は、竪穴住居跡400軒以上、掘立柱建物跡200棟以上にのぼります。海に面する台地上に立地し、農耕と漁撈(ぎょろう)、さらに、ウシの飼育も行われていたようです。役所に関わる人間とのつながりも見られます。9世紀後半に集落は最盛期を迎え、鍛冶工房を伴う大型の掘立柱建物群が建ち並びます。墨書土器(墨でまじないなどの文字を書いた土器)を含む大量の土器が投棄される祭祀的な饗宴も行われていたようです。
No.13 平成8年7月15日号 権力の証として ~古墳時代の遺跡~
中世(平安時代末〜戦国時代)
鎌倉時代末に編纂されたと考えられている歴史書『吾妻鏡あずまかがみ』には、治承4年(1180年)10月に、源頼朝が「鷺沼御旅館」に滞在していたという記事があります。平治の乱で平氏に敗れ伊豆に流されていた源頼朝は、この年8月に挙兵しますが、石橋山の合戦で敗れて安房国に逃れました。そして上総国の上総広常や下総国の千葉常胤など豪族の支援を受けて再挙をはかり、東京湾沿いに軍勢を進め、最終的には10月6日に鎌倉に入りました。この記事はその途中、武蔵国(現在の東京都・埼玉県・神奈川県の一部)に入る直前のことです。この「鷺沼御旅館」のあった場所はわかっていませんが、習志野市の鷺沼付近であるという説があります。
室町時代~戦国時代の合戦を描いた軍記物語(『房総里見軍記』『関八州古戦録』など)には、鷺沼源吾・鷺沼源太・鷺沼七郎兵衛といった名の武士が出てきます。「常総軍記」(赤松宗旦『利根川図志』に引用)では千葉勝胤(天文元年(1532年)死去)の家臣として「鷺沼に木村十太夫」が配置されていたと記されています。ただし、これらの軍記物語は江戸時代になってから作られたもので、明らかな誤りや創作も多いため、こうした記事を歴史的事実としてそのまま信用することはできません。中世、習志野市域は千葉氏一族の勢力下にあったと考えられますが、当時の文献はほとんど残っていないため、どのような村があって誰の支配下にあったのか、といった実態は不明です。
市内ではまだ明確に中世の集落跡といえる遺跡は発見されていませんが、中世の遺跡としては、実籾3丁目遺跡では道路跡・地下式坑を伴う台地整形遺構が発見されました。また、実籾城跡では土塁や堀などが確認されており、砦として使われたのではないかと考えられます。したがって、実籾本郷に中世の集落があった可能性は高いと思われます。
江戸時代初期、市域では谷津・久々田・鷺沼・藤崎・実籾本郷に村があったと考えられますので、中世には、それらの村のもととなった集落がおそらくは形作られていったのではないかと推測されます。
近世(江戸時代)
戦国時代末期、後北条氏の支配下に入った千葉氏は、天正18年(1590年)に後北条氏とともに滅亡。その後、徳川家康が関東を領有するようになり、慶長8年(1603年)に江戸幕府が開府しました。
江戸時代の市域には、谷津村・久々田(くぐた)村・鷺沼村・藤崎村・実籾村の他、新田開発により成立した大久保新田などがありました。これらの村々に藩領はなく、いずれも幕府領または旗本領でした。なかには一つの村を複数の領主が分割支配する相給 (あいきゅう)村落もありました。
村々は大消費地江戸近郊の生産地として発展していきます。海岸沿いの房総往還(千葉街道)や本市を東西に横断する東金(御成)街道は、幕府の役人や住民の通行、物資輸送のために利用され、街道沿いには集落が成長していきました。海上輸送も盛んに行われ、江戸との間を多くの船が行き交いました。
また、現在の東習志野地区は幕府の直轄牧場である小金牧の一部、下野(しもの)牧に含まれていました。近隣の村には街道や牧の管理のため重い負担が課せられ、将軍が鹿 (しし)狩りを行う際には、市域の村々の百姓も勢子人足(せこにんそく)(狩場で獲物の鳥獣を追う人夫)として動員されました。嘉永2年(1849年)の鹿狩りで勢子が目印にした鷺沼村の村小旗は現在も残っており、千葉県指定文化財に指定されています。
近代(明治時代〜終戦)
明治6年(1873年)、今の習志野市・船橋市・八千代市にまたがる小金牧の一部が陸軍の演習場となり、明治天皇が「習志野原」と命名しました。明治22年には谷津・久々田・鷺沼・藤崎・大久保新田の5村が合併して人口約4千5百人の津田沼村が誕生し、明治36年には津田沼町となります。実籾・屋敷は幕張村、のち幕張町の一部となります。
演習場に引き続き、明治29年に高津廠舎(日露戦争・第一次世界大戦中にはロシア兵・ドイツ兵の捕虜収容所が置かれる)、明治32年に大久保の騎兵旅団、同40年津田沼の鉄道大隊(のち鉄道第2連隊)が置かれるなど軍関連施設が建設されました。一方、明治28年の総武線津田沼駅、大正10年代の京成線各駅の開業など鉄道も発展します。こうした軍隊と鉄道の存在は、町並みの発展に大きな影響を与えました。
西暦 | 和暦 | できごと |
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1868年 | 慶応4年 明治元年 |
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1869年 | 明治2年 | 葛飾県設置 |
1870年 | 明治3年 | 佐倉藩に編入 |
1871年 | 明治4年 | 廃藩置県、佐倉県のち印旛県に |
1873年 | 明治6年 |
|
1874年 | 明治7年 | 藤崎学校・鷺沼学校・大久保学校(それぞれのちに−小学校)設立 |
1875年 | 明治8年 | 谷津学校(のちの谷津小学校)設立 |
1877年 |
明治 10年 |
コレラ流行 |
1878年 |
明治 11年 |
谷津村・久々田村が連合、藤崎村・大久保新田・鷺沼村が連合、実籾村・長作村・天戸村・花島村が連合し、それぞれ連合戸長役場を設置 |
1879年 |
明治 12年 |
コレラ流行 |
1880年 |
明治 13年 |
教育令改正、藤崎小学校が鷺沼小学校の分校になる |
1882年 |
明治 15年 |
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1887年 |
明治 20年 |
鷺沼・菊田・藤崎・谷津・大久保の5小学校が合併、三輝尋常小学校(のち菊田尋常小学校と改称)となり、鷺沼・藤崎・谷津・大久保は分校となる |
1889年 |
明治 22年 |
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1894年 |
明治 27年 |
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1895年 |
明治 28年 |
|
1896年 |
明治 29年 |
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1899年 |
明治 32年 |
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1900年 |
明治 33年 |
久々田に株式会社津田沼商業銀行設立 |
1901年 |
明治 34年 |
|
1902年 |
明治 35年 |
津田沼郵便局・久々田郵便局開設 |
1903年 |
明治 36年 |
津田沼村が津田沼町になる 秋山好古、騎兵第1旅団長に就任(〜1906年) |
1904年 |
明治 37年 |
日露戦争(〜1905年) 騎兵第1旅団・第2旅団出征 |
1905年 |
明治 38年 |
習志野俘虜収容所設置 ロシア兵捕虜を収容(〜1906年) |
1907年 |
明治 40年 |
|
1908年 |
明治 41年 |
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1910年 |
明治 43年 |
津田沼尋常高等小学校校舎を新築 |
1911年 |
明治 44年 |
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西暦 | 和暦 | できごと |
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1912年 | 大正元年 | 吉野茂助、私立大正学館を創立(〜1933年) |
1914年 | 大正3年 |
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1915年 | 大正4年 | |
1917年 | 大正6年 | 9月30日夜〜10月1日未明、暴風雨及び高潮により海岸部が大きな被害を受ける |
1918年 | 大正7年 |
|
1919年 | 大正8年 | 習志野俘虜収容所のドイツ兵オーケストラ「美しく青きドナウ」を演奏 |
1921年 |
大正 10年 |
京成線船橋−千葉間開通、谷津海岸駅(現谷津駅)・京成津田沼駅開業 |
1922年 |
大正 11年 |
兵頭精(伊藤飛行機研究所練習部卒業生)が三等飛行機操縦士免状を取得 日本における女性飛行士第1号 |
1923年 |
大正 12年 |
関東大震災 陸軍高津廠舎に避難民収容 鉄道第2連隊が総武線の運転、避難民の収容、救援部隊・救援物資の輸送、鉄道・橋梁の復旧 習志野衛戍病院は負傷者治療、軍医・看護兵が東京方面に出動して治療活動 混乱の中で保護の名目で習志野の俘虜収容所に収容された朝鮮人が引き出され殺害される |
1924年 |
大正 13年 |
鉄道第2連隊の編成完了 |
1925年 |
大正 14年 |
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1926年 |
大正 15年 |
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西暦 | 和暦 | できごと |
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1927年 | 昭和2年 |
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1931年 | 昭和6年 | 阪東妻三郎、谷津遊園内に大日本自由映画プロダクション阪妻関東撮影所を設置(〜1936年) |
1932年 | 昭和7年 |
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1933年 | 昭和8年 |
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1934年 | 昭和9年 |
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1935年 |
昭和 10年 |
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1936年 |
昭和 11年 |
|
1937年 |
昭和 12年 |
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1938年 |
昭和 13年 |
篠原機械製作所、埼玉県越谷から実籾に移転 |
1941年 |
昭和 16年 |
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1942年 |
昭和 17年 |
田中航空機製作所、津田沼町に工場設置 |
1944年 |
昭和 19年 |
鉄道第10連隊・第11連隊・第12連隊・第15連隊編成・大久保国民学校創立 |
1945年 |
昭和 20年 |
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現代(戦後〜)
第二次世界大戦後、旧軍施設は学校・住宅・工場などに変わりました。習志野演習場跡地も開拓され、現在の東習志野地区のもとが形作られました。
昭和29年(1954年)8月1日、津田沼町と千葉市の一部が合併し、習志野市が発足しました。この後、習志野市は、高度経済成長下に急激な変貌を遂げます。昭和40年代の第1次埋立て、同50年代の第2次埋立てによって住宅地の造成が進み、一方では市立習志野高等学校の設立(昭和32年)及び野球部・吹奏楽部などの活躍、千葉工業大学・日本大学生産工学部・東邦大学付属東邦中学校・高等学校の転入、習志野文化ホールの開館など、「習志野市文教住宅都市憲章」(昭和45年)にふさわしい文教住宅都市として、また首都圏のベッドタウンとして発展しました。昭和61年には米国アラバマ州タスカルーサ市と姉妹都市提携を行い、国際交流を深めています。
西暦 | 和暦 | できごと |
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1945年 |
昭和 20年 |
|
1946年 |
昭和 21年 |
|
1947年 |
昭和 22年 |
|
1949年 |
昭和 24年 |
|
1950年 |
昭和 25年 |
|
1951年 |
昭和 26年 |
|
1952年 |
昭和 27年 |
|
1953年 |
昭和 28年 |
|
1954年 |
昭和 29年 |
|
1955年 |
昭和 30年 |
|
1956年 |
昭和 31年 |
実籾保育所開所 |
1957年 |
昭和 32年 |
|
1958年 |
昭和 33年 |
|
1959年 | 実籾塵芥焼却場完成 | |
1960年 |
|
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1961年 |
昭和 36年 |
|
1962年 |
昭和 37年 |
杉の子幼稚園開園 |
1963年 |
昭和 38年 |
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1964年 |
昭和 39年 |
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1965年 |
昭和 40年 |
日本大学第一工学部(現生産工学部)設置 |
1966年 |
昭和 41年 |
|
1967年 |
昭和 42年 |
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1968年 |
昭和 43年 |
|
1969年 |
昭和 44年 |
|
1970年 |
昭和 45年 |
|
1971年 |
昭和 46年 |
東習志野幼稚園開園 菊田公民館開館 |
1972年 |
昭和 47年 |
|
1973年 |
昭和 48年 |
|
1974年 |
昭和 49年 |
|
1975年 |
昭和 50年 |
|
1976年 |
昭和 51年 |
|
1977年 |
昭和 52年 |
|
1978年 |
昭和 53年 |
|
1979年 |
昭和 54年 |
|
1980年 |
昭和 55年 |
|
1981年 |
昭和 56年 |
|
1982年 |
昭和 57年 |
|
1983年 |
昭和 58年 |
|
1984年 |
昭和 59年 |
|
1985年 |
昭和 60年 |
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1986年 |
昭和 61年 |
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1987年 |
昭和 62年 |
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1988年 |
昭和 63年 |
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西暦 | 和暦 | できごと |
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1989年 | 平成元年 |
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1990年 | 平成2年 |
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1991年 | 平成3年 |
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1992年 | 平成4年 |
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1993年 | 平成5年 |
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1994年 | 平成6年 |
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1995年 | 平成7年 |
|
1996年 | 平成8年 |
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1997年 | 平成9年 |
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1998年 |
平成 10年 |
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1999年 |
平成 11年 |
習志野都市計画道路3・3・3号線開通 |
2000年 |
平成 12年 |
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2001年 |
平成 13年 |
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2002年 |
平成 14年 |
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2003年 |
平成 15年 |
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2004年 |
平成 16年 |
|
2005年 |
平成 17年 |
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2006年 |
平成 18年 |
|
2007年 |
平成 19年 |
|
2008年 |
平成 20年 |
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2009年 |
平成 21年 |
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2010年 |
平成 22年 |
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2011年 |
平成 23年 |
|
2012年 |
平成 24年 |
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2013年 |
平成 25年 |
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2014年 |
平成 26年 |
|
2015年 |
平成 27年 |
|
2016年 |
平成 28年 |
|
2017年 |
平成 29年 |
|
2018年 |
平成 30年 |
|
2019年 | 令和元年 |
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2020年 | 令和2年 |
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2021年 | 令和3年 |
消防本部新庁舎完成 |
2022年 | 令和4年 |
|
2023年 | 令和5年 |
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更新日:2024年02月02日