小金原のしし狩り資料 村小旗 (千葉県指定有形文化財)

更新日:2022年09月29日

ページID : 4804
染め抜き文字の村小旗の写真

 江戸時代、現在の千葉県北西部には幕府が直接経営した牧場(まきば)がありました。現在の流山市・柏市・松戸市・印西市・白井市・鎌ケ谷市・船橋市・習志野市・八千代市・千葉市にかけての広い地域にわたる上野牧・高田台牧・印西牧・中野牧・下野牧という5つの牧で、総称して小金牧と呼ばれます。
 このうち中野牧(松戸市・鎌ケ谷市・柏市・白井市・船橋市)では、将軍の鹿狩りが4回行われました。享保10年(1725年)、享保11年(1726年)、寛政7年(1795年)、嘉永2年(1849年)の4回です。ここに紹介する村小旗は、このうち嘉永2年(1849年)3月18日に行われた将軍徳川家慶の鹿狩りに関する資料です。
 鹿狩りでは、遠方から獲物となる鹿などを追い込む勢子人足(せこにんそく)が周辺の村々に割り当てられました。総数7万人といいます。ちなみにこの鹿狩りでは、中野牧周辺で獲物となる鹿・猪が激減していたため、一年前から関東地方の村々に獲物を用意させ、それを牧の中に放って狩りが行われたといいます。
 習志野市域の村々から動員された勢子は、112の村、2814人の人足で構成される「六の手」に参加しました。市域の村の割り当て人数は次のとおりです。実籾村18人、大久保新田28人、名耕地新田5人、谷津村13人、久々田村14人、鷺沼村12人、藤崎村13人。なお、六の手の世話役は、千駄堀村(現松戸市)・大和田新田(現八千代市)・実籾村の名主が務めました。
 各村の人足は、目印として○国○郡、○村、人足○拾○人と記した幟(のぼり)を立てるように決められていました(下図参照)。一の手から七の手までの勢子の集団を区別するため、色分けなどがされていました。六の手の幟旗は、長さ二尺三寸(約70センチメートル)のねずみ色の布に赤い文字で記し、旗竿の先に長さ一尺二寸(約36センチメートル)、径八寸(約24センチメートル)程度の「藁たわし」を付けるように定められていました。

「打合議定書」掲載の幟の写真

「遠手村々へ打合議定書」(嘉永二年二月、藤崎・田久保家文書)より
この文書は「六の手」の世話人だった実籾村の名主から藤崎村の名主宛てに送られたものです。鹿狩りで「六の手」がすべきことについて、打合せで取り決めたことがらが記されています。手引き・マニュアルのようなものといってよいでしょう。
 この中に、各村で用意すべき幟(のぼり)について、左のような絵入りで示されています。旗の中には「何国何郡」「何村」「人足何拾何人」、その左に「長サ弐尺三寸」、下には「鼠色」「文字赤」と記されています。

 鷺沼村に伝わっていた村小旗は、この取り決めに基づいて鷺沼村が作った幟旗と考えられます。長さは77センチメートル、およそ二尺五寸で、規定より若干大きめですが、ほぼ規定どおりに「六之手」「下総国千葉郡」「人足拾弐人」「鷺沼村」と書かれています。褪色していますが、ねずみ色の布地に赤色で書かれていたと思われます。
 鹿狩りは、内外に幕府の武力・権威を誇示する意味があったと考えられます。嘉永二年の鹿狩りも、天保の改革が失敗し、外国船の来航が相次ぎ、幕藩体制が大きく動揺する中、危機を乗り越える意図から実施されたとも考えられます。しかしそれは、周辺の村々に大きな負担を強いるものでした。村小旗は、まさにこうした歴史を今に伝える資料といってよいでしょう。
 なお、千葉県指定の「小金原のしし狩り資料」は、ほかに色羽織(白井市)、村小旗(白井市)、稲葉神明社の絵馬(八街市)が指定されています。

名称

小金原のしし狩り資料 村小旗

員数

1 旒(りゅう)

種別

有形文化財(歴史資料)

時代

江戸時代

寸法等

本体:縦約77センチメートル、横約49センチメートル
乳(ち)(旗竿を通すための輪)を含む全体:縦約84センチメートル、横約56センチメートル

素材

木綿

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