ドイツ捕虜関係資料(習志野市指定文化財)

更新日:2022年09月29日

ページID : 5600

資料の概要

 第一次世界大戦(1914年〜1918年)において、日本は日英同盟を根拠(こんきょ)としてドイツに宣戦し、青島(ちんたお)及びドイツ領南洋群島を占領(せんりょう)しました。その結果、約5千人のドイツ及びオーストリア・ハンガリーの将兵が捕虜となり、日本各地の収容所に収容されました。
 習志野俘虜(ふりょ)収容所は、大正4年(1915年)9月に設置され、最大で約千人の捕虜を収容しました。以後、大正8年(1919年)12月に捕虜の解放が始まり、最後の捕虜が解放される大正9年(1920年)1月に至る4年以上の長い間、習志野の地でドイツ及びオーストリア・ハンガリーの将兵が捕虜として収容所生活を送ることとなりました。
 「ドイツ捕虜関係資料」は、「エーリッヒ・カウルの日記」「ヨハンネス・ユーバーシャール博士旧蔵写真」「ボトルシップ」の3件132点で構成されます。これらは全て習志野俘虜収容所に収容されていた捕虜が作製したと考えられ、捕虜の暮らしぶりを現在に伝える貴重な資料です。

「第一次世界大戦と習志野−大正8年の青きドナウ−」のページが開きます。

エーリッヒ・カウルの日記

エーリッヒ・カウルの日記(表紙)

表紙「Tagebuch」(日記)

 習志野俘虜(ふりょ)収容所に収容されていたドイツ水兵エーリッヒ・カウル(Erich Kaul)が遺(のこ)した日記1冊及び写真2点です。
 平成25年(2013年)、エーリッヒ・カウルの縁者から習志野市に寄付されました。
 習志野俘虜収容所に収容されていた捕虜による日記・手記は、これまでに数点が報告されていますが、エーリッヒ・カウルの日記は市内に原本が現存する唯一の日記です。捕虜自身が書き記した記録であり、収容所における捕虜の暮らしを理解するうえで極めて貴重な資料です。

日記の内容

 冒頭では、1891年の自身の誕生に始まる略歴が順を追って記されています。1914年に軍に徴集(ちょうしゅう)されてからは徐々に日記形式になり、それ以後、青島(ちんたお)に送られ、戦闘の開始から11月の降伏(こうふく)、東京収容所(浅草本願寺)での生活、1915年9月の習志野収容所への移転、4年以上に及ぶ習志野での生活、1919年12月の解放と1920年2月の帰国に至るまでが日記として綴(つづ)られています。最後の記事は故国に帰着、上陸したところで締(し)めくくられています。

千葉県日独協会・ボトルシップ研究会の皆さんによる日本語訳です(宗宮好和氏監訳)。
令和3年(2021)3月修正(第2刷)。

令和2年(2020年)9月公開版(第1刷)に対する正誤表です。上記の第2刷では修正済みです。

ページが開かれた右側に文字が書かれているエーリッヒ・カウルの日記の写真
開かれたページの左右にぎっしりと文字が書かれたエーリッヒ・カウルの日記の写真
蛇の抜け殻のページが開いてあるエーリッヒ・カウルの日記の写真
写真や押し花などが載ったページが開いてあるエーリッヒ・カウルの日記の写真

ヨハンネス・ユーバーシャール博士旧蔵写真

収容所の前で記念撮影しているドイツ兵の白黒写真

 習志野俘虜(ふりょ)収容所に収容されていた捕虜ヨハンネス・ユーバーシャールが所蔵していた白黒写真126点(附、封筒1点)。東京俘虜収容所(浅草本願寺)・習志野俘虜収容所で撮影された写真60数点をはじめ、戦時の青島(ちんたお)周辺と思われる写真、撮影地不明ながら日本で撮られた写真、人物写真などを含んでいます。
 平成30年(2018年)、ユーバーシャールの教え子であった方から習志野市に寄付されました。

 その由来が明確であるとともに、習志野俘虜収容所の写真としてまとまったものであり、捕虜の暮らしぶりや収容所のようすを伝える貴重な資料です。

ヨハンネス・ユーバーシャール博士(Dr. phil. Johannes Ueberschaar:1885年-1965年)

机に右肘をついて座っているヨハンネス・ユーバーシャール博士の白黒写真

 明治44年(1911年)、ドイツ語及びラテン語の教師として来日、大阪高等医学校に在職しました。第一次世界大戦の際には志願兵として従軍。降伏(こうふく)の際の日独の交渉では通訳を務め、捕虜となった後は収容所でも通訳として活躍しました。日本通(つう)であることから、収容所内で日本に関するテーマの講座をたびたび開いています。
 戦後は大阪高等医学校に復職、以後、京都大学、浪速(なにわ)高校、甲南(こうなん)高校の講師を歴任し、昭和7年(1932年)、ライプチヒ大学の日本語学教授に就任、日本文化研究所を設立して初代所長となりました。
 昭和12年(1937年)、再来日して天理外国語学校、甲南高等学校講師を歴任、第二次世界大戦後は甲南大学教授となり、昭和40年(1965年)に神戸で亡くなりました。日本においてドイツ語・ドイツ文学の教育、海外への日本文化の紹介に尽力した人物です。

バラック(右)とラウベ(左)の建物が建っている白黒写真

バラック(右)とラウベ(左)

机のような上に捕虜が寝ており、室内には沢山の洋服などがかけられたバラック内部を写した白黒写真

バラックの内部

ラウベの建物前で椅子づくりをしている男性の白黒写真

ラウベの前で椅子づくり

捕虜と衛兵が立って写っている白黒写真

捕虜と衛兵

ボトルシップ

 習志野俘虜(ふりょ)収容所に収容されていた捕虜が、収容所を訪れた近隣(きんりん)住民に贈ったと伝わるボトルシップ2点です。収容中の捕虜が作製したと考えられ、住民との交流を示唆(しさ)する貴重な資料です。発見順に第1号、第2号と呼称します。

ボトルシップ第1号

帆船の模型が入っている瓶の中がうっすら白くなっているボトルシップ第1号の写真

 平成9年(1997年)、習志野市津田沼在住の歌田實(うただみのる)氏から習志野市に寄付されました。小学校教諭であった寄付者の母親が、学童を引率して収容所を見学で訪れた際、捕虜の1人から贈られたものと伝わっています。

ボトルシップ第2号

瓶の中に帆船の模型が入っているボトルシップ第2号の写真

 平成25年(2013年)、千葉市花見川区在住の小川 勝利(かつとし)氏から習志野市に寄付されました。寄付者の母親が、その父親(寄付者の祖父)の形見として大切に保管していたものです。寄付者の祖父は生前、現在の習志野市大久保で八百屋を営んでいたと伝わっており、収容所に野菜を届けた際に知り合った捕虜から、このボトルシップを譲り受けたものと推測されています。

名称

ドイツ捕虜関係資料

員数

132点
 日記1冊(附、写真2点)、写真126点(附、封筒1点)、ボトルシップ2点

種別

有形文化財(歴史資料)

年代

大正3年(1914年)から昭和40年(1965年)
 中心は、大正3年から大正9年(1920年)ころ

所有者

習志野市

関連情報

  • 習志野市の文化財
     習志野市の指定文化財一覧
  • 第一次世界大戦と習志野-大正8年の青きドナウ-
     習志野俘虜収容所の特集ページ

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