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習志野市 未来のために〜みんながやさしさでつながるまち〜習志野
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第一次世界大戦と習志野―大正8年の青きドナウ―

更新日:2016年5月18日

第一次世界大戦と習志野―大正8年の青きドナウ―について

今から100年ほど前、千葉県習志野の広大な原野に「美しく青きドナウ」の調べが流れていました。

 大正4年(1915)9月から同9年(1920)1月にかけての4年4か月の間、最盛期には1,000名近いドイツ兵が習志野に収容されていました。このページでは、習志野俘虜収容所での彼らの生活をご紹介します。

▼図版・写真資料について
 ここに掲載している図版・写真は、ヴァルター・イェーキッシュ氏(ドイツ連邦共和国ボーフム市)とペーター・パンツァー博士(ボン大学)の所蔵資料を含んでいます。掲載図版・写真の無断使用はご遠慮ください。
 イェーキッシュ氏の所蔵資料には◇印、パンツァー博士の所蔵資料には◆印を付しました。イェーキッシュ氏とパンツァー博士のご協力に御礼申し上げます。

Deutsch : ドイツ語訳

このページのドイツ語訳は上のリンクをクリックし、PDFファイルを開いてご覧ください。

English : 英語訳

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※その他の外国語訳は、右クリック→「Live Searchで翻訳」→翻訳先の言語を選択してご覧ください。

青島の戦いとドイツ兵捕虜の収容

画像:膠州湾要塞陥落のようすを描いた絵はがき
膠州湾要塞陥落のようすを描いた絵はがき ◆

 大正3年(1914)、第一次世界大戦の戦雲はヨーロッパ中を巻き込んだばかりか、遠く東アジアまでを覆い尽くした。明治維新から半世紀にもならない日本は、日英同盟によりイギリス・フランス・ロシアなどの連合国側に立って参戦し、日本の近代化に大きな影響を与えていたドイツと戦うことになった。中国・山東省のドイツ租借地・青島(ちんたお)が、日独戦争の焦点となった。

 同年11月、日本軍の猛攻の前に青島は陥落し、ワルデック総督以下約5,000名のドイツ将兵が捕虜となった。彼らは日本に送られ、久留米・福岡など12の捕虜収容所に収容された。習志野に彼らが収容されたのは、翌4年(1915)9月のことであった。東京・浅草本願寺に収容されていた将兵に加えて、福岡・久留米・静岡・大分の各収容所から習志野へ移送が行われたが、その中には、日本に向けて親善訪問の途中で開戦に巻き込まれてしまったオーストリア・ハンガリーの軍艦「カイゼリン・エリーザべト」の乗組員も含まれていた。

習志野俘虜収容所でのくらし

 習志野俘虜収容所長は、西郷寅太郎(さいごうとらたろう)大佐であった。彼は西郷隆盛の嫡子であり、父が反逆者として敗死した後、明治天皇の思召しでドイツの士官学校に留学していた経験を持ち、ドイツに深い理解を持っていた。そればかりでなく、戦争の悲惨さや敗れた者のみじめさも、身をもってよく知っていたのである。

捕虜たちの日常生活

 何よりも無為に過ごすことをきらう勤勉なドイツ人らしく、習志野に収容された約1,000名の将兵は、日本側が用意したバラックの他に、広大な構内にラウベ(あずまや)と呼ばれる小屋を作った。さらに、演奏会や演劇を行う野外ステージ、バラックとバラックの間には菜園を作り、ビールまで醸造して多彩な生活を過ごしていた。印刷所ではフリッツ・ルンプが、日本情緒あふれる絵はがきまで作っていたのである。

文化活動

写真:習志野捕虜オーケストラ
習志野捕虜オーケストラ

 単調な捕虜生活を彩ったのは、音楽をはじめとする文化活動とスポーツであった。習志野捕虜オーケストラは、所内でたびたび演奏会を開き、ベートーヴェン、モーツァルト、シューベルトそれにヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」までが演奏されていた(右の演奏会プログラムの7曲目に「美しく青きドナウ」がある)。草深い習志野原に、望郷の思いを乗せてウィンナ・ワルツが流れていたのである。捕虜劇団はイプセンに挑戦し、捕虜仲間を講師にした「捕虜カレッジ」が開かれ、映画館もあった。また、日本の文化に深い理解を持つルンプは、日本の民話の翻訳に没頭していた。

写真:習志野映画劇場
習志野映画劇場 ◇

スポーツ

 習志野原は、スポーツには好適の場所だった。彼らはサッカー、テニス、ホッケーなどを楽しむばかりでなく、体育祭を開き、ドイツ体操とも呼ばれる「トゥルネン」で体力作りに励んでいた。

写真:サッカー
サッカー風景 ◇

習志野の人びととの交流

 このような彼らの捕虜生活は、鉄条網の中で、周辺の日本人とは関わりなく過ごされていたものではない。周辺の主婦は洗濯物の請負に収容所に通い、肉の仕入れに出たドイツ兵は肉屋にハムやマヨネーズの製法を教え、子供たちは演芸会をのぞいてドイツ兵からラムネをもらうのを楽しみにしていた。収容所見学に来た小学生の一行にドイツ兵がくれた「ボトルシップ」が、それを伝えている。

ボトルシップ

写真:1例目のボトルシップ
1例目のボトルシップ(歌田實氏寄付、習志野市蔵)

写真:1例目のボトルシップの近接画像
1例目のボトルシップの近接画像

これは、当時、大久保(現在の習志野市大久保)で青果店を営み、習志野俘虜収容所に野菜を届けていた寄付者の祖父が、懇意になったドイツ兵捕虜からプレゼントされたと推測されるものです。
瓶の中の帆船には、旧ドイツ帝国の国旗が掲げられています。

写真:2例目のボトルシップの近接画像
2例目のボトルシップの近接画像

南ドイツの民謡「シュナーダヒュッペル」

習志野には、このような捕虜生活の中で歌われた南ドイツの民謡「シュナーダヒュッペル」が残されていた。今でもこのメロディーを覚えている谷原さんは、母親が洗濯物の請負に収容所に通っていた際に聞き覚えられた、と言う。

ぜひ「シュナーダヒュッペル」のメロディーを聴いてみてください。

楽譜はこちらから印刷できます。

日本のソーセージ製造発祥の地・習志野

 また、カール・ヤーンら5名のソーセージ職人は、千葉市に新設された農商務省畜産試験場の飯田技師の求めに応じてソーセージ作りの秘伝を公開し、この技術は農商務省の講習会を通じて、日本全国の食肉加工業者に伝わっていった。習志野は、ソーセージ製造発祥の地となったのである。ヤーンは最初、伝統の秘伝を公開してしまうことにためらいを示したが、西郷所長の熱心な説得に折れてくれたものだと伝わる。この他、収容所から房総の牧場に出張してコンデンスミルクの技術指導をした者、銀座のカフェーに洋菓子作りの指導に通っていた者などが知られている。

捕虜たちを襲った大事件―スペイン風邪の流行―

 4年半に及ぶ習志野でのこのような捕虜生活において最大の事件は、大正7年(1918)の秋から大流行し世界中で被害を出した「スペイン風邪」(インフルエンザ)によって、25名のドイツ兵と西郷所長が命を落としたことであった。
 大正7年11月、第一次世界大戦はドイツの敗北をもって終結した。そして、うちひしがれる習志野のドイツ兵をあざ笑う死神のように、スペイン風邪が襲いかかってきたのであった。12月に最初の死者が出て、次の犠牲者は西郷所長であった。大正8年(1919)1月1日、朝から高熱を出していた西郷所長は、医師が止めるのも聞かず、乗馬で収容所へ向った。年頭のあいさつとして敗戦の衝撃に沈んでいるドイツ兵を励まし、この新年が彼らにとって帰国の年となることを伝えようとしたのである。あるドイツ兵は、所長の死亡はこの日の午後4時であったと、敬意を込めた墓碑銘のように記している。

 これは、戦友を弔うドイツ兵の葬儀の模様である。スペイン風邪に倒れた25名は、その他5名の収容中の死亡者と共に、今も船橋市営習志野霊園に眠っている。

帰国

 大正8年(1919)は、西郷所長の約束どおり、帰国の年となった。ヴェルサイユ講和条約が発効し、この年のクリスマスの朝に、習志野のドイツ兵は収容所を出て津田沼駅まで行進し、帰還船の待つ神戸や横浜に向った。また、20名が後片付けに残留し、翌9年(1920)1月に解放されている。ワルデック総督が、自分の部下がすべて解放されたのを見届け、最後の1人として習志野を後にしたのは、大正9年1月26日のことであった。

捕虜たちのその後―日本での活躍―

 習志野を後にしたドイツ兵の中には、ワイン技師ハインリッヒ・ハムがいた。山梨県のぶどう園の指導に招かれた彼は、そのまま戦争に巻き込まれ、習志野で失意の日々を過ごしていたのである。夢破れて故郷に帰ったハムは、そこでかつて自分が送った1913年産の日本のワインと再会する。「エルスハイムに帰って見つけたこの数本のワインは、まだ輝きがありとてもおいしかった」と、彼は誇らしげに記している。日本産のワインを育て、日本人にワインの楽しさを伝えようとした彼の夢は、しかし本当に破れさった訳ではなかった。彼が心血を注いだぶどう園は、今ではサントリー山梨ワイナリーとなっているのである。

 ところで、すべてのドイツ兵が混乱の祖国に帰った訳ではなく、日本に残った者もいた。ソーセージ職人カール・ブッチングハウスは、東京・目黒にソーセージ工場を作り、ヨーゼフ・ヴァン=ホーテンは明治屋でソーセージの技術指導を行った。ヘルムート・ケテルは、銀座でレストランを開業し、老舗の味として今日に至っている。当初、日本人はソーセージを気味悪がり、事業はなかなか軌道に乗らなかった、という。

 今日、ビールのジョッキを傾け、ハムやソーセージを頬張り、ワインを味わうとき、敵国であった日本に留まり、食習慣のあまりにも違うこの国の民に、遂には「うまい!」と言わしめた彼らの苦闘を偲ぶやさしさを、われわれは大事にしたいものである。

 フリッツ・ルンプはドイツに帰国し、日本文化研究のオーソリティーとなる。特に浮世絵に関する研究は、ドイツにおける日本学の基礎として重要なものとなった(右の写真の後ろの壁には、浮世絵が飾られている)。また、彼が習志野で完成した日本の民話のドイツ訳は、今日なお出版され親しまれているのである。

 ヨハンネス・ユーバーシャール(甲南大学他)、カール・フォン・ヴェークマン(成蹊大学他)は、日本のドイツ語教育と海外への日本文化紹介に大きな貢献をした。フリードリッヒ・ヴェックス(バイエル)やエミール・スクリーバ(日本窒素)は、ビジネスマンとして活躍した。フリードリッヒ・ハックは、外交ブローカーとして日独防共協定(1936)の締結に重要な役割を果たした。しかし、彼が結びつけたものは、往年のカイゼルの国とサムライの国ではなく、ナチス・ドイツと軍国日本であった。そのことに気付いた彼はスイスに亡命し、後に日本の終戦工作に力を尽くしている。

捕虜たちが残した記録

 捕虜として収容されていた人々の中には、日記や回想録を残した人がいました。それらのうち、幸いにも戦火などを免れ、子孫により今日まで伝わったものがあります。収容所でのできごとや暮らしぶり、故郷・家族から遠く離れた心情を知ることができる貴重な記録です。こうした記録類の中で、
 ハインリヒ・ハムの日記
 カール・クリューガーの回想録
のうち、習志野俘虜収容所に関する部分は『習志野市史研究』第3号に掲載されています。

エーリッヒ・カウルの日記

大正4年(1915)9月から大正8年12月まで習志野俘虜収容所に収容されていたエーリッヒ・カウルの日記。子孫から習志野市に寄贈されました。縦20.3×横16.5×厚1.9センチメートルのノートに、215ページ以上にわたって記されています。ノートは裏表紙に「篠崎謹製」と箔押しされており、日本で入手した可能性があります。1914年のチンタオ(青島)での開戦(それより前の記録も含む)から1920年の帰国まで、できごとや心情が簡潔に記されており、たいへん貴重な記録です。

今も残る収容所の歴史

 船橋市習志野2丁目にある船橋市営習志野霊園には、習志野で亡くなったドイツ兵30名を祀る慰霊碑がある。現在も、毎年11月の「ドイツ国民哀悼の日」には、駐日ドイツ武官を迎えて慰霊祭が行われている。

 人間はなぜ、時に殺し合い、国境や言語・文化の違いが偏見を生むのか。この膨大なテーマを考えるとき、習志野原という片田舎で行われた1つの出会いは、ある視点を与えてくれる。徳島県板東の収容所は、同じ時期、ベートーヴェンの第九交響曲を日本初演したことで知られているが、第九は習志野でも演奏されていたという情報もある。「すべての人々は兄弟となる!」 彼らドイツ兵捕虜が故郷を偲んで歌ったこの歌に、永遠のメッセージが込められているのではないだろうか?

習志野俘虜収容所ゆかりの地

ドイツ捕虜オーケストラの碑

習志野俘虜収容所において、ドイツ兵捕虜がオーケストラ活動を行っていたことを記念し、収容所の跡地に建立されました。

  • 所在地

習志野市東習志野4丁目4番地
(東習志野四丁目児童遊園内)

  • 交通

京成本線実籾駅から徒歩20分

船橋市営習志野霊園

習志野で亡くなったドイツ兵捕虜30名を祀る慰霊碑があり、毎年11月の「ドイツ国民哀悼の日」には、駐日ドイツ武官を迎えて慰霊祭が行われます。

  • 所在地

船橋市習志野2丁目5番9号

  • 交通

JR津田沼駅北口からバス「高津団地」「北習志野駅」行き等で「自衛隊前」下車、徒歩約5分

関連情報

平成7年から平成23年にかけて、『広報習志野』で連載していた「新ならしの散策」です。
習志野俘虜収容所に関わる記事も掲載されております。

習志野市の歴史に関わる刊行物を紹介しております。

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