No.81 平成17年8月1日号 習志野の教育2 わが村のわが学校―明治時代の小学校と地域
新ならしの散策 No.81
習志野の教育2 わが村のわが学校—明治時代の小学校と地域
明治5年(1872年)「学制」が発布されて、各地に小学校がつくられるようになりました。表のように、習志野市域でも各地域に小学校が創立されます。当時の小学校は、かつての寺子屋をそのまま学校にしたものが多く、生徒も50人前後で先生も1人か2人の小さな学校でした。
これらの小学校を運営する経費は、生徒から集めた授業料などをあてていましたが、足りない部分は地域で負担する場合もありました。たとえば、藤崎小学校は「学(校)畑」という畑をもっており、地域の人が土地を借りて耕作し、学校に地代を払っていました。また、鷺沼小学校は「学校無尽」といい、地域の人々の寄付金を元手にお金を貸し、利子を学校の運営費にしていたようです。町村の予算で運営したり、資金が足りずに統廃合されてしまう学校が多かった当時としては、地域で学校を支えようという意識が強かったことが分かります。まさしく「わが村のわが学校」だったわけです。
そんな地域の小学校が1つにまとめられたのが明治41年(1908年)です。この年津田沼町は町内の5つの小学校を統合して、在校生1,000名あまりの津田沼尋常高等小学校を創立し、明治43年には現在の京成津田沼駅近くに新校舎を建設しました。この校舎の建設資金は5,300円で、当時の町の年間予算の4分の3、明治34年(1901年)に建てられた大久保尋常小学校の建設費と比べても3.5校分の校舎が建てられるお金です。この校舎は当時としてはハイカラで、町の誇りとして絵葉書がつくられたぐらいです。
その一方で統合に反対する動きもありました。鷺沼地域では陳情書を提出して「当区ハ合併ニハ絶対ニ応シ難ク」「断ジテ独立致ス心得」と強い決意を示しました。しかし、運動のかいもなく、鷺沼尋常小学校は「ココニ遂ニ廃校ノ止ムナキニ至レリ」という無念の言葉を最後に歴史を閉じることになります。
各地域の学校はその後も分教場としては存続しますが、昭和19年(1944年)に大久保国民学校が独立するまで、津田沼尋常高等小学校は津田沼町内で唯一の小学校であり、市内の多くの学校がこの学校から独立していきました。その意味では津田沼尋常高等小学校は習志野市のマザースクールだったともいえます。
学校名 | 創立年度 | 設置場所 | 生徒数 明治7年(男) |
生徒数 明治7年(女) |
生徒数 明治7年(合計) |
生徒数 明治8年(男) |
生徒数 明治8年(女) |
生徒数 明治8年(合計) |
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菊田学校 | 明治6年 | 東漸寺 | 59 | 15 | 74 | 44 | 26 | 70 |
鷺沼学校 | 明治7年 | 慈眼寺 | 41 | 7 | 48 | 44 | 6 | 50 |
谷津学校 | 明治8年 | 東福寺 | - | - | - | 49 | 6 | 55 |
藤崎学校 | 明治7年 | 正福寺 | 20 | 5 | 25 | 23 | 3 | 26 |
大久保学校 | 明治6年 | 不明 | 28 | 4 | 32 | 統廃合 | 統廃合 | 統廃合 |
実籾学校 | 明治6年 | 無量寺 | 不明 | 不明 | 不明 | 33 | 3 | 36 |
(明治7年、8年『文部省年報』より作成)
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更新日:2022年09月29日