No.80 平成17年7月1日号 習志野の教育1 江戸時代の寺子屋の碑―天明の筆子塚

更新日:2022年09月29日

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新ならしの散策 No.80

習志野の教育1 江戸時代の寺子屋の碑ー天明の筆子塚

 「寺子屋式」などと銘うって、よく塾や予備校が生徒募集に精を出しています。寺子屋というと、江戸時代に浪人が、長屋の子どもを集め習字を教えている光景が思い出されますが、寺子屋の実態は少し違っていたようです。

 教室の多くは寺のお堂で、生徒は周辺の村々からも来ていたようです。たとえば、藤崎の正福寺にある「筆子塚」と呼ばれる寺子屋の生徒(筆子)が、師匠を慕って建てたお墓には、67名の筆子の名前が刻まれています。その内訳は藤崎村48名、大久保新田6名、久々田村1名、三山村7名、田喜野井村2名、前原新田2名、米ヶ崎村1名で、最も遠い米ヶ崎村(船橋市)からは5キロメートルほど離れています。子どもの足では片道1時間以上かかったと考えられます。また、教科書には往来物と呼ばれる手紙を集めたものや、周辺の村名・国名などを書き上げたものが使われ、「読み・書き・そろばん」といわれるように実践的な内容だったようです。しかし、なかには難しい漢文の本や数学を教えていたところもあり、高度な教育も行われていたようです。

墓石に文字が刻まれた三橋家墓地の筆子塚の白黒写真

三橋家墓地の筆子塚

 市内の筆子塚には正福寺のほかに鷺沼の慈眼寺のものがよく知られていますが、「筆子」の文字が刻まれた最も古い墓はあまり知られていません。天明6年(1786年)といいますから、今から200年以上前、久々田(現津田沼)の三橋茂兵衛家の墓地に「鷺沼村筆子中」と刻まれた墓があります。この三橋家は久々田の旧家で、明治時代には兄の三橋承卿が県議に、弟の茂兵衛が村長(2・5代目)となり、地方政治の指導者となっていました。また、一族からは耳鼻科の名医であった三橋潜博士や、梅原猛氏の著書「湖の伝説」で有名な夭折の画家の三橋節子画伯が出ています。三橋家は潜氏の代に大阪で医院を開業した関係で、現在その家は習志野市内にはありませんが、もともとは今の津田沼6丁目のワイがや通り沿いで米穀を扱う大きな商家であったことが分かっています。

 天明年間という比較的早い時期に商家で寺子屋を開いていたことを考えると、久々田・鷺沼などの海岸部では江戸との商品流通が活発であったため、庶民の教育熱が高かったことが想像されます。

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