No.74 平成16年11月1日号 習志野市誕生3 闘魂をこめたハンガーストライキ

更新日:2022年09月29日

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新ならしの散策 No.74

習志野市誕生 3 闘魂をこめたハンガーストライキ

 中央に「闘魂」と書かれた寄せ書きには20数名の名前とともに「平和習志野市建設」「ナラシノバンザイ」などの文字が見えます。そして右端には「習志野市建設断食(だんじき)記念」と大きく書かれています。この寄せ書きは昭和29年(1954年)5月28日からはじまった、幕張町の千葉市合併に反対する住民によるハンガーストライキの際に書かれたものです。

 実籾や屋敷など現在の習志野市の東部地区は、以前は千葉郡幕張町に属していました。当時の幕張町内には、千葉市との合併を希望する「千葉市派」と、津田沼町と合併して習志野市建設を希望する「習志野市派」の2つのグループがあり、町を二分して運動を行っていました。北部地区は習志野市派が大勢で、南部地区は千葉市派が大勢でした。両派の多数派工作は熾烈(しれつ)を極め、一部には暴力事件が起こるほど険悪なものになっていました。しかも、千葉市派の切り崩し(きりくずし)は激しく、北部地区の中からも千葉市派に転向する地区が相次ぎました。習志野市派も巻き返しを図(はか)りますが、このままでは人口が当時市昇格の基準である3万人に届かず、習志野市建設を断念せざるを得ないほどに追いつめられていきます。昭和29年5月13日、幕張町議会が賛成13、反対9、保留2で千葉市との合併を強行決議したことが対立に拍車(はくしゃ)をかけ、千葉県の調停を求めて、習志野市派住民による県庁でのハンガーストライキが起こるまでになったのでした。当時の新聞には「もつれる千葉合併」「紛争続く幕張町」「南北に分町か」の見出しが躍(おど)っています。

ストライキを起こしている人々がテントの下で座禅や正座をして座っている白黒写真

県庁前でのハンガーストライキ

 千葉県や国会議員の調停もあって、結局7月6日幕張町は千葉市と合併。8月1日に津田沼町と幕張町の一部が合併し習志野市を建設。ついで8月28日に天戸・長作などが習志野市から千葉市に移るという変則的な形になりました。このため幕張町の一部の地域では、わずか2か月の間に幕張町 → 千葉市 → 習志野市 → 千葉市と、籍が四転するという事態にもなりました。

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