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習志野市 未来のために〜みんながやさしさでつながるまち〜習志野
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No.26 平成10年2月15日号 もう一人の西郷さん2 〜西郷寅太郎と習志野〜

更新日:2007年8月23日

もう一人の西郷さん2 −西郷寅太郎と習志野−

 習志野捕虜収容所長西郷寅太郎は、慶応2年(1866年)の寅年に西郷隆盛の長男として生まれました。明治10年(1877年)の西南の役で父・隆盛が非業の最期を遂げると、一家は鹿児島でひっそりと暮らしていましたが、明治17年、勝海舟らの奔走によって明治天皇のお召しを受け、ドイツの士官学校に留学を命ぜられます。
 明治の日本は、医学・法律・工学・軍事などあらゆる分野でドイツを模範にしていましたが、ドイツに学んだ寅太郎は、そのドイツ軍人を捕虜として遇しなければならなかった訳です。いわば運命の皮肉でしたが、西郷所長は捕虜に寛大だったようで、所内には捕虜のオーケストラや合唱団がありました。「時々所内ニ於テ俘虜音楽会及演劇等ヲ許可セリ」などという記録があり、ドイツ側の資料は「西郷中佐はドイツをよく理解していた」と語っています。

 ところで、習志野という地名は、明治6年に西郷隆盛が率いる陸軍大演習に臨まれた明治天皇が名付けられた、という話は有名ですが、大正6年には習志野原にその記念碑が建てられることになり、その除幕式の招待客の中に西郷寅太郎の名が見えます。父・隆盛は、大演習からわずか4年後には皆さんご存知のような最後を遂げてしまったのですから、除幕式に臨んだ寅太郎も感慨深いものがあったことでしょう。
 大正8年(1919年)、スペイン風邪と呼ばれたインフルエンザが猛威をふるい、習志野のドイツ捕虜も帰国を待たず死亡する者が相次ぎました。一人でも無事にドイツに帰すことに心を砕いていた西郷所長は胸を痛めたことでしょう。そして、西郷所長自身が、このスペイン風邪で命を落とすことになります。ドイツ側の証言は、次のように語っています。「彼は、捕虜たちに新年の祝詞を述べ、彼らがまもなく故郷に帰還できることを祈るため、医師の止めるのも聞かず高熱をおして乗馬した直後に斃れた〔たおれた〕のであった」。武士道とか騎士道というものがまだ残っていたこの時代に、「賊将」の子として明治を生きた西郷所長は、武士の情けをもってドイツ捕虜を遇したようです。
 このような話が日本では忘れられてしまい、ドイツに伝わっていた、というのも面白いことですね。

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