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「蘇」と牛牧 〜古代の健康食〜

更新日:2021年3月8日

 みなさん牛乳はお好きですか?苦手な方も多いかもしれませんね。でも、牛乳が栄養豊富なのは皆さん認めるところでしょう。牛乳だけでなく、バターやチーズなどの乳製品も高い栄養価があるので、免疫を維持するため積極的に食べている方もいると思います。

 実は、古代の日本ではすでに牛乳に様々な加工を施した乳製品が食べられていたのですが、こうした事実は最近まであまり有名ではありませんでした。


 その中の1つである()については、コロナ禍の影響もあり色々なメディアで話題になりました。そこで、古代の健康食ともいえる「蘇」とは何かについて、古代の牛牧との関わりも交えてまとめてみたいと思います。

「蘇」とは?

 古代の「蘇」が実際どのような形をしていたのかについては明確にはわかっていません。蘇については、日本・中国の文献や復元実験、あるいは墨書土器などに基づいて様々な研究がされているので、現代のチーズやヨーグルトのようなものだという人もいれば、バターや練乳だという人もいます。

 この中で、平安時代につくられた法律書である『延喜式(えんぎしき)』には、「乳大一斗敗、得蘇大一升」と書かれており、これは「乳大一斗から蘇大一升を得る」という意味です。1升は1斗の10分の1になるので、牛乳の10分の1が蘇となるようです。このことから、おそらく日本における蘇とは、牛乳を煮詰めて、無糖練乳よりもさらに濃縮したのち乾燥させたもので、写真のような固形のものではないかと考えられます。



 チーズのようにも見えますが、発酵させる工程について日本では文献に遺っていないので、発酵食品とはあまり考えられていないようです。

「蘇」は古代の健康食!

 平安時代につくられた、現存最古の医学書である 『医心方(いしんほう)』によれば、蘇は「全身の衰弱をおぎない、大腸をよくし、口の中の潰瘍を治療する…」とされており、当時から蘇が健康に良いと考えられていたようです。
 
 蘇は、『政事要略』の中に「文武天皇四年十月、使を遣し蘇を造しむ」と見え、飛鳥時代の終わりには作られていました。文献だけでなく、蘇や牛乳の利用を示す木簡が平城宮跡で出土していることから、奈良時代には貴族や皇族の間で食生活に乳製品を取り入れていたのだと考えられます。


 ただ、蘇をつくるには牛乳をひたすら煮詰めるのですから、いま再現してみても分かる通り、大変な手間暇がかかったと思われます。それどころか、古代は人も牛も現代よりずっと少なかったのですから、牛乳を作るのも簡単では無かったでしょう…。


 大宝令では「乳戸(にゅうこ)」と呼ばれる、牛乳や乳製品の生産に携わる集団が置かれたとされており、また『続日本紀(しょくにほんぎ)』によれば、和銅6年(713年)に山背国に50戸の「乳牛戸(にゅうぎゅうこ)」が置かれるなど、 徐々に牛乳・乳製品をつくる体制が整えられていきました。

「蘇」と牛牧

 奈良時代に本格的な生産が始められた蘇や牛乳ですが、歴史上の様々な場面で蘇が登場しています。
 例えば、『小右記(しょうゆうき)』には藤原道長が熱が出たために「蘇蜜煮」を服用していたとあり、また、『唐大和上東征伝(とうだいわじょうとうせいでん)』には鑑真が来日した際に蘇を携えていたとされるなど、蘇が貴族たちの医薬品としてや、仏教儀礼でも用いられていたようです。

 このように蘇は食品としてだけでなく、様々な用途で使われることで需要が高まっていきました。

 しかし、こうした需要に対応するためには乳戸などの中央の機関だけでは足りなかったと考えられるので、地方の牛牧でも蘇を造り、都に送らせていたことでしょう。 こうした蘇の貢納については、正税帳などの記録や木簡に記されています。


 奈良・平安時代の習志野市周辺は下総国に属していましたが、『延喜式(えんぎしき)』によれば蘇を納める国に安房(あわ)上総(かずさ)下総(しもうさ)の三国が含まれていました。同じく延喜式に載っている諸国牧(しょこくまき)としては、上総国では「負野牛牧(おうののうしまき)」、下総国では「浮嶋(うきしま)牛牧」があり、こうした牛牧も蘇の生産に関わっていた可能性が濃厚です。
 

谷津貝塚でも蘇を作った?

 習志野市に所在する谷津貝塚は、多量の牛骨が奈良時代の竪穴住居跡から、鉄製の焼印が平安時代の竪穴住居跡から出土しており、8世紀を中心に牛牧との関わりが考えられます。浮嶋牛牧を千葉市幕張付近に比定する説もあり、浮嶋牛牧とも関係する「牧関連集落」であるといえます。

 ここでは、蘇に直接関連する遺物こそ見つかっていませんが、牛骨がこれほど出土する事例は周辺地域に無く、蘇や牛乳の生産に関わっていた可能性は大いにあるでしょう。


 また、谷津貝塚では墨書土器や帯金具(おびかなぐ)、皇朝十二銭など、 公的な人物がいた可能性を示す資料も出土しているので、同遺跡を地方官衙(かんが)(古代の役所)と結びつける説もあります。瓦塔(がとう)(焼き物で作られたミニチュア仏塔)など、仏教と関連する遺物も出土しています。

 これらのことから、ある程度身分の高い人達が集落の中で蘇や牛乳を消費していた可能性もあります。

 さらに、谷津貝塚は国内の海岸部にある遺跡では唯一といっていい牧関連遺跡である点にも注目すべきでしょう。律令の規定では、牛の飼育法について細かく定められていましたが、谷津貝塚では海岸の立地を利用した放牧や飼料の供給など、「海浜型」ともいうべき飼育の特徴があったかもしれません。今後の研究によってこうした部分は明らかになっていくことでしょう。

その後の蘇

 平安時代以降の蘇についてですが、貴族の衰退と武士の台頭が進むとともに歴史の表舞台からいったん姿を消してしまいます。再び蘇が登場するのは、江戸時代に将軍家に献上する滋養薬として作られるようになってからです…。 皆さんも現代の蘇づくりにチャレンジしてみてはいかが?

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