土器に文字が書いてある?!「則天文字」

更新日:2022年09月29日

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読めない文字?

王の文字に横棒が一本多い文字が入った土器の写真

 となりの写真は谷津貝塚から出土した土器に書かれた文字です。何て書いてあるのでしょう?王の書き損じでしょうか…?
 漢字に詳しい人は漢数字の「40」を横にしたようだと思うかもしれませんね。でも、それだと右の端が少しはねているのが気になります。
 ちなみに、一般的な漢和辞典を調べても載っていません。

則天武后と文字

 実は、これは「一」と「生」を組み合わせてできた、「則天文字(そくてんもじ)」という文字の一種なのです。則天文字とは何なのでしょうか…?

 「則天」と聞いて、「則天武后(そくてんぶこう)」や「武則天(ぶそくてん)」を連想した人は中国史がお好きな人かもしれません。あるいは、中国でも度々ドラマ化されている人物なので、中国ドラマ好きな人でしょうか?

 そう、中国史上唯一の女帝であり、唐の国号を周と改め、様々な制度改革を行った則天武后(武則天、624-705)が作り出した文字が「則天文字」なのです。

則天武后像を描いたイラスト

則天武后像(『世界歴史大事典』より)

「武后行従図」が描かれたイラスト

「武后行従図」

 「中国三大悪女」の一人とも称され、長年にわたって否定的な見方をされてきた則天武后ですが、近代以降は武后が行った改革について、評価を見直す研究が増えています(氣賀澤保規『則天武后』講談社学術文庫)。新たな人材獲得に努め、科挙(かきょ)の制度改革をしたり、「道先仏後(どうせんぶつご)」の宗教政策を変え、仏教を手厚く保護して新たな経典をつくるなど、後世にも影響が残る様々な改革を行った人物でもありました。

 則天武后は、古い慣習を打破し、すべてを一から作り直すのだという意気込みを示すかのように、様々な改称・改変を行いました。例えば、皇帝・皇后をそれぞれ「天皇(てんこう)・天后(てんこう)」と改称したり、頻繁に元号を変えるなどしました。その元号の一部にも則天文字が使われていますが、則天文字という独自の文字の使用も、そうした改変の一つだったのです。

則天文字の種類

則天文字と呼ばれる独特の文字が描かれたイラストの写真

 則天武后が690年に制定し、後に則天文字と呼ばれるに至った独特の文字ですが、いくつ作られたのかは実際のところ分かっていません。現在確認されているのは17種類ほどとされています。則天文字は、たとえば「山・水・土」を合わせて「地」を表す文字にするなど、ほとんどの字が漢字の偏やつくりを合成し、意味を合わせて作り出したものでした。

 則天武后は新王朝を樹立したことを象徴し、また日常使わざるを得ない文字を中心に作り替え、使用を義務付けることで、女帝としての存在感を示したかったのでしょう。則天武后は元の姓名を「武照(ぶしょう)」といったのですが、この照の字も作り替え、則天文字の一つにしています。

 また、この則天文字は則天武后が亡くなった705年には周から復した唐において直ちに使用が禁じられてしまうのですが、唐の国外ではその後も長く使われ続けました。日本も例外でなく、奈良時代のはじめに則天文字の一部が伝わった後、江戸時代に至るまで則天文字が用いられることがありました。特に、水戸藩2代藩主・徳川光圀(とくがわみつくに)が「國」の字に「惑」が入っているのを忌み嫌い、則天文字を用いたとされているのは有名な話です。

谷津貝塚で見つかった則天文字

 奈良時代に則天文字が日本へ伝わった証拠に、日本各地の遺跡で則天文字が書かれた土器が見つかっています。谷津貝塚では1千点以上も墨書土器が出土していますが、このうち則天文字が書かれた墨書土器は9世紀代(平安時代前期)を中心に多く出土しています。こうした点も他の遺跡ではあまりみられない谷津貝塚の特徴の一つであると言えるでしょう。

「一」と「生」の文字が入った土器の写真

「一」と「生」で「人」を表す

「千」と「山」の文字が入った土器の写真

「千」に「山」で「正」を表す

土器がひび割れしており、〇(丸)が書かれている写真

「〇(丸)」で「星」を表す

王の文字に横棒が一本多い文字が入った土器の写真

「人」(鏡文字)

「正」のような文字が薄く入っている土器の写真

「正」

「人」のような文字が薄く入っている土器の写真

「人」

 最も多いのは「一生」と書いて「人」を表す文字で、谷津貝塚ではこの文字が7点出土しています。出土した則天文字の中では最も多く、字体や大きさも様々で複数の人物が書き記したと考えられます。そのほか、千に山を合わせて「正」を表す文字や、ただ〇(丸)を書いて「星」を示す字も則天文字の可能性があります。谷津貝塚ではこの3種類の則天文字が確認されました。

日本へいつ?どうやって伝わったの?

 さて、則天武后が制定したのち、則天文字がいつ・どのように日本へ、また谷津貝塚の集落へ伝わったのでしょうか?

 まず時期については、正倉院宝物の慶雲四年(707年)書写の『王勃詩序(おうぼつしじょ)』に則天文字が使われていますが、この書物は大宝の遣唐使(704年帰国)によってもたらされたと考えられています。つまり、則天文字が制定されてからわずか17年後、則天武后が没してから2年後には日本で則天文字が使われたことになります。

 また、どのように日本の各地へ伝わったのかについては、様々なルートが考えられています。まず、前述のように則天武后は仏教を重視し、武后治世下に作成された経典には則天文字が多く使われていたため、唐から請来(しょうらい)されたそれらの経典を写経する過程で、則天文字もお寺や僧侶を媒介として各地の官衙(かんが)(古代の役所)や集落に伝わったとする考え方があります。

 二つ目は、「養老律(ようろうりつ)」という奈良時代の法律書の写本に則天文字が使われているので、当時の地方行政に携わる役人を介して集落まで伝わったとする考え方です。ただ、いずれの場合も、地方では則天文字のすべてが伝わったわけではなく、その中の数文字が単発的に伝わったに過ぎないようです。

 なお、なぜ土器にこうした則天文字を書いたのかという点については、実ははっきりとは分かっていません。当時の人々のあいだでは、これらが則天武后が制定した文字であるとか、本来の則天文字の意味についてはあまり認識が無かったのではないかと考えられています。それよりも、則天文字はどれも画数が多く、見た目がとても神秘的なものが多いので、他の吉祥句(きっしょうく)(縁起の良い字句)などと同様に、マジカルな効果に惹かれて書いたのではないでしょうか。当時は文字を書けるのは僧侶や役人など、ごく一部の人々に限られていたため、こうした文字を記すことによってある種の権威といったものを示していたのかもしれません。

 谷津貝塚の集落でどのように則天文字などの墨書土器が使われたのかについては、また別のページで触れたいと思います。

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