あとがき

更新日:2022年09月29日

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 この度、日露戦争100年を機会に、習志野市教育委員会より私の冊子「習志野の捕虜収容所」がホームページで公開されることになりました。教育委員会のまえがきに、この歴史史料が「眠ってしまったようで、広く知られる機会を失いました。」とありますが、27年前習志野市史編纂準備委員会から小冊子が印刷されたときは、関係者だけにわたるわずかな部数だったと思います。その後、「習志野市史」が編集、出版された時もこの史実が記載されず、私は密かに失望していました。それだけにこの度、ホームページに公開され、しかも、このことを習志野市広報で広く市民に案内されたことは、まさにこの冊子と史実が暗闇から陽の目を見た思いであります。

 今回の公開は、前回見つけ出せなかった当時の貴重な写真がたくさん文中に掲載され、さらに貴重な資料「補 習志野収容所での死亡者」が追加されております。これは教育委員会社会教育課の方々の追跡調査によるものです。また、企画管理課の方によって、資料の原文を枠で囲むなどの編集で、読者の方に読みやすいように書き改められております。このように復刻版がより充実して、世の中に出たことを深く感謝し、心から喜んでおります。

 習志野市にあったというロシア捕虜収容所や私の調査のことが関係者の間ではなんとなく知られていて、私は講演や現地でのガイドを何度か頼まれたことがありました。特に思い出深いのは、1980年(昭和55年)船橋市の「日ソ友好協会」主催で習志野の霊園で行われた講演会でした。当時のソ連大使館もロシア捕虜収容所とロシア捕虜の墓のことを初めて知ったということで、2人の大使館員が出席されました。ロシアの捕虜が日本の住民と親しく接し、大切に扱われたことを話したら、通訳を通して感謝の意を表していたのを思い出します。その折、墓に花輪が供えられ、慰霊祭的な雰囲気でした。

 1905年(明治38年)習志野原に突然15,000人を収容するロシア捕虜収容所ができ、異国人の大集落が出現したことは、習志野市(当時の津田沼町)だけでなく千葉県にとっても近代史上の大事件でした。さらに、原野の広大な開発、建物の建設、収容所への物資の納入などで、一大経済ブームが起き、原っぱであった国鉄津田沼駅前、収容所前の大久保・実籾に商店が建ち並ぶようになり、町は大きく変貌したことでしょう。軍事的にも日露戦争と巨大な収容所建設を契機に、習志野はこれまでの騎兵旅団の発祥の地、駐屯地から、日本陸軍の関東の大演習地へと変わっていきました。こうして見ると、ロシア捕虜収容所は「軍郷習志野」の形成に大きく関係していると思います。

 この冊子の中の史実で、後世に是非伝えておきたいことは、ロシア捕虜と津田沼町民・日本人との人間的な交流でした。確かに当時の異国人種へのものめずらしさ、商売繁盛のありがたさもあったのでしょう。しかし、異国の地で暮らす捕虜を慰めようと様々な物が寄贈されたり、剣舞・曲芸・演奏などが行われています。佐倉市や松山の収容所では自由な外出も認められ、習志野収容所の中でも楽しく歌ったり遊んだり、日本の赤ん坊を抱いたりする姿が見られたのです。食費は日本兵より高額で、軍・行政・学校も捕虜に対し「寛待優遇」し、無礼な態度をとらないよう国民に訓示するほど気の使い方でした。捕虜たちは収容所を去るときは「深き同情と親善」に感謝状さえ出しているのです。これは習志野市民と日本人の誇るべき姿であったと思います。

 「日本捕虜志」の作家長谷川伸は「殺し合い、戦いあった兵士同士も、戦いがすんだら人間同士であると握手し、慰めあうことが日露戦争では一般的であった」(本文中)ことを、後世に語り継ぐために太平洋戦争の戦災中は、草稿を地中に埋めて守ったといいます。

 こうした史実が日本人とロシア人の間にいつまでも語り継がれ、両国民の友好と親善、平和に役立つことを切に願うものであります。

平成16年3月
宇野 武彦

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