捕虜と町民

更新日:2022年09月29日

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更新日:2010年12月16日

 当時15,000余名の捕虜が収容されていた習志野は全国29カ所の中でも浜寺(大阪)の収容累計35,000名に次いで多く、この2カ所は前掲の表からも分るように、他の収容所がせいぜい多くて3,300余名であったのに比べてずばぬけて多いものであったことが分る。又、収容所の多くが有名な松山収容所をはじめ京都・名古屋等の寺に収容していたのに比べ、この大収容所は広地に急ごしらえの大廠舎を建てたものであった。寺に収容された所では、従卒付の将校が主だったようで、全捕虜将校1,915名の4分の1を占めていたという松山収容所や、ロジェントフスキー提督ら高官が知恩院の由緒ある室をあてがわれていた京都などが典型である。習志野収容所の階級構成は曹長100人、軍曹988人、伍長1,119人、兵卒13,309人、合計14,995人(あとで10人加わる。最高時)である。将校は0で、下士卒ばかりである。北樺太の捕虜が送られてきたときも軍務知事中将リヤーノフをはじめ将校は弘前・秋田・山形・仙台の寺院にまわり、下士卒全部が習志野に送られてきたのである。第2章で述べたように、他の収容所があふれ出したときに建てられ、各地から転送されて来たのであった。
 寺院に収容されたような所では、外出も認められ、日本の民衆との直接の接触があり、興味深い交流風景や痕跡が残されている。有名になったのは松山収容所で、地元民の心厚い慰問や優待、「ロシア町の誕生」、将校捕虜の遊興振り、捕虜の各地への観光散策、道後温泉の買切り、レイカー少尉の日本娘ハナとの恋等々数限りない話が『日本捕虜志』(長谷川伸著)や『松山収容所』(前掲)に書かれている。

 佐倉収容所でも短期間であったが、ロシア捕虜は大へんな反響があったらしく、次のような記事がある。

 1905年(明治38年)5月のある日、出征兵士の見送りで近在から多くの人手があったのであるが、捕虜の散歩があると聞いて、「正頃より見物に出掛くる者引き切らず、又兵士もぞろぞろと浮れ出したる事なれば各商店は元より蕎麦屋、しる粉屋、一銭飯屋までが溢るゝ程の千客万来は近頃になき景気なりし。捕虜は正午過より各収容所を出でて練兵場に至り、何れも無邪気な運動に嬉戯せる様、外つ国に捕われ身とは思へぬばかりなりと見物人は囁き合へり。4時近くには皆々収容所へ帰りたるが、散歩中1捕虜通訳に向って、願はくは毎日の散策を許されたしと懇望せる由、(後略)」

 妙隆寺の現在の住職村上英俊さん(明治38年生れ)は「自分は生れたばかりの年でロシア捕虜の記憶はないが、親から聞いたところによると、捕虜たちが代る代る赤坊の私を抱いてあやしてくれたという。この寺の収容所というのは当時境内にあった50畳ぐらいの広さの公民館であったのであるが、そこで生活していたのだ。また、町の人が見物に大勢やってきて身振り手振りで捕虜と話していったと聞いている。」という。

 佐倉市で捕虜を実際に見たという人は玉谷俊郎さん(明治28年生れ)しか探し出せなかったが、「町の通りを歌を歌いながら歩き廻っていた。その頃、こんな大きな体の兵隊と戦争してよくも勝ったものだと思った。町民と捕虜は和気あいあいであった。後程悪いことをする人もでてきたようであるけれど。」といっている。

 当時の新聞も捕虜の生活や町民との交流を次のように伝えている。

 「町民も最初は俘虜の入込んだを香しく思わなかったが、馴れてみれば種族は変っても情は変りはない。彼等も好んで来た訳ではなく、奮闘猛戦力つきて甲を脱いだ勇者であると思へば憐も深く、曩に町民高橋由八外数氏より西洋手拭300、カメリヤ300包を寄送したのを始め諸方から続々慰問として物品を贈らるゝので、俘虜一同深く其の厚意を感謝してゐるそうである。
 俘虜に対する食事を始め、其他の支給品は習志野と同様だが、こゝの炊事は町民に請負はしめ各収容所に炊事場を設けてある。又習志野のような不便な土地でない為めに、別段酒保としての設備はないが、毎日1回出入商人の振売を許してある。併し300人といふ限られてゐる俘虜だから、差したる商なひはないさうだ。

 炊事については折々滑稽なことがあるが、これは最初のことであったが、突然に草を食はせるは余り酷いと申出たるものがある。馬にでも草は食はせぬ。変なことだと調て見ると、これが菜びたしの副食物であったので、主任も成る程彼等が路傍の草と一般に思ふも最だと、早速通訳をして説明したので始めてそれと悟て、大に恐れ入ったそうである。(中略)何処の収容所にも手細工の不器用な将棋盤が転がってゐる。彼等が無聊を慰むる唯一の品であるのだ。其他には竹切などを拾って巧に笛を拵へ、折には笛の調子に乗って浮かれ出し矢鱈無性と躍り跳ねるものもある。ピイピイピユピユと吹立てる調子は、丁度飴屋が流して歩く彼の唐人笛のような音で。」

 習志野ではこの広大な大収容所が高さ9尺ぐらいの竹矢来で二重にぐるりととり囲れ、日本兵の守衛が鉄砲をかついで囲いの中を行ったり来たりして監視していたという。捕虜たちと見物人たちは、その囲いを通して、監視の目をかすめて接触が行われたようである。その様子は新聞記事でもうかがい知ることができる。

 「(前略)この喇叭や胡弓に合はせて構内に踊り廻る有様は、大陸的にして頗る滑稽である。彼等も近来日本語を覚えて『チキショウ』、『バカ』などといふ言葉を知らぬものは1人もないようになった。又巡査の居ぬ隙を狙って話しかける見物人に『タバコタバコ』とねだりかけるものが頗る多い。ソレに数字などは、百までは大抵なものも数へられるようになった。(後略)」

 しかし、習志野においても捕虜に対する慰問があり贈物もあった。1905年4月の初め金丸銃砲店の渡辺俊郎氏が絵葉書き数十枚を、希望する捕虜に配っている。5月中旬にも日本輪友タイム会が捕虜慰問のために輪行し、煙草、ビスケットを寄贈したうえ、会員たちが自転車の曲乗、蓄音機の演奏を行っている。これに対しては、次のような反応があったようである。「俘虜の慰問は博愛の精神に出でたる美事に相違なきも、敵国に於ける我同胞が如何なる境遇に在りて、如何なる待遇を敵国政府より受けつゝあるかを考ふるに非ざれば、其所謂博愛の美挙なるものは『お人好し』の愚挙に了るのみ。事に由りて彼等の侮蔑を買ふ材料ともなるべしと言ふものあり。」

 収容所側は捕虜の到着して早々の3月末に捕虜への贈物は「真の篤志者に限り出張所取締官武官の鑑査を経て許可さるべし」という方針であった。また、「俘虜に対しては無為に差し置んは衛生上、経済上不利益のみならず、彼等捕虜自身にとりましても苦痛此上無き次第なるべければ、バラック工事も竣工し且つ諸般の設備成り次第、炊事若くは其他開拓、公共の土工に使用して相応の賃銭を与ふること、為さば彼我の便益ならんとの説ありし(千葉毎日新聞)」と判断に迷っていたらしい。

 渡辺勇次郎さんによると、「実籾の農民は人糞のくみ出しをしたり、炊事の薪木を納入するために馬車で収容所に毎日のように出入りしていた。酒を欲しがるので、営門を通るとき桶の中に隠して売った。」ということである。

 当時の新聞によれば、収容所に出入りを許されたものには商人とその店員であったとある。1905年(明治38年)4月、国司仙吉、石塚友七、杉山養民、五十嵐惣左衛門の4氏が4,000円共同出資して千葉商会をつくり、陸軍の許可を得て収容所の正門前に店を開いている。構内の各区に2つづつの出張所をつくり「酒保」(軍隊内の店)を設けている。その店員は10数人であったが出征兵の家族や遺族であったらしい。売品は和洋酒類(途中で禁酒となる)・たばこ類・菓子・果実・すし・紙類・その他の小間物一式であった。酒保には捕虜たちが終日出入し、群集していた。この御用商人たちは捕虜だけでなく、収容所のバラック建設のために集ってくる職工約4,000人や、捕虜見物人をも商売の対象としたので開店早々好景気であったらしい。

 現在津田沼町に本社のある白井建設の初代社長白井保四郎の伝記である『ぼうふらの記』(加藤俊雄編)に、次のように書かれている。「御用商人大和田の山田某は俘虜にブランデーを密輸し莫大の成金となり家を改築して、実に立派な門まで新築した。町の人はこの門をブラン(デー)門と名付けて羨んだ。」これら捕虜相手の商人は薬円台や大久保の人々が中心であったらしい。捕虜帰還後は陸軍廠舎や騎兵連隊への馬糧納入や演習兵士相手の食料、日用品販売の御用商人に変っていったようである。

 習志野市に地元出身の建設会社を産み出すことになった遠藤組も捕虜収容所建設に加わっており、日露戦争によって大成長してゆくのである。習志野市の前身である津田沼町もこの戦争によって軍郷として大変貌してゆく。『ぼうふらの記』の中では、その様子がリアルに描かれているので引用しよう。

 「(前略)ときあたかも鉄道投資ブーム期であり、一方戦争気構え軍部関係工事が膨大な量となり、遠藤組は多くの工事を特命でもらい飛ぶ鳥も落す勢いとなった。(中略)大敵ロシアを倒し“勝った、勝った”で国中は鼎のように沸いた。そして満州から鉄道連隊のあった習志野へぞくぞくと戦利品が送られることになった。そのほか習志野原には陸軍廠舎のあとに捕虜収容所ができ紅毛人が多数習志野に入ってきたから当分は物珍らしさで噂の種となった。つづいて騎兵の各連隊が設置されるようになり、終戦と共に草深い習志野は人馬輻輳する軍都と変貌することとなった。(後略)」(廠舎と騎兵連隊の設置の時期について誤記があるように思える)
 「(前略)津田沼駅附近は人煙稀で、畑ッ原のまん中に駅ができた形で、(白井)保四郎が津田沼にきた明治40年頃には人家13軒しかなく、旱天では黄塵万丈、雨が続けば泥膝を没するという有様であった。

 駅前の家といえば竹三郎、羽生、中村屋、島佐屋、柏熊、榊原、森田運送店、遠藤運送店、沖松、喜兵衛次などで、憲兵分遣隊が一画をつくってやや離れておかれ、民家の大半は雑貨などを売る小商人であった。しかし戦後数年すると様相が変化してきた。小料理屋ができ、民家が畑ッ原の中へもポツポツできはじめ、白い襟首の女も出没しはじめた。軍都として消費経済が拡大しはじめ、兵隊の数がふえてきたからである。(中略)このようにして習志野原も時代の脚光を浴び、あたかもゴールドラッシュ時代のアメリカ西部の街のように人と馬がひしめいてきた。」

 当時捕虜(外国人)は大へん珍らしく、興味深いものであったらしく収容所の籬の傍には見物人が群がったようである。梅沢宇面さんは当時のことを次のように回想している。

 「沢山の人々が弁当持ちで遠くから捕虜を見に来た。当時は実籾木戸(現在の実籾三叉路)に家が一軒あったきりであるが、三山新田(現在の船橋市三山町9丁目)の入口から実籾木戸まで、収容所の境の土堤の道に沿って見物人相手に葦笥張の露店がずっと並んだ。私の家も薬園台に家があり、両親は陸軍に薪を納めていたのであるが、見物人や演習の兵士相手に現在の位置の家に店を出すようになった。そして、薬園台の家より、この『原の一軒家』が本住いになってしまった。演習の時は犬や鉄砲の音が枕元で聞えるようで何日も眠れないことさえあった。近くにオオスナの池というのがあり、ロシアの捕虜は大きな袋を背負って洗濯に来たものである。近くの人々や子供たちはそれを見に沢山集ったものである。また死者が出ると陸軍墓地で葬式が行われ、捕虜が多い時は100人ぐらい参加し、土の中に棺を埋める前に1人1人がのぞき込んで別れをしていた。その時は必ずこの店によりラムネを飲んでいったものである。9歳の子供であったから懸命にたくさんのラムネの栓を抜いたので手が痛くなる程であった。ドイツの捕虜は目が紫がかっていたが、ロシア人は茶色で日本人と変っているし、髯面であったので恐くはないけれどドイツ人より近寄りにくかった。ロシア人やドイツ人の葬式は花輪がいっぱい飾り盛大であったので、日本人としては非常に珍らしく、これを見物するために沢山の人が集まったものである。収容所に見物に来た人々と捕虜たちは監視の目を盗んで自分の衣服と酒を交換したものである。」

 梅沢さんは日本兵がロシアの捕虜数人と仲良く並んでいる写真1葉をもっていた。(現在石崎申之さん所蔵)これは、「原の一軒家」に来た日本人の看護兵がくれたものであるという。

日本兵とロシアの捕虜数人が集まって写っている白黒写真

(前列中央の捕虜はヴァイオリンを持っている。)

 捕虜の見物は帰国が近づいた1905年10月中旬よりいっそう多くなったようである。当時の新聞によれば、「俘虜の帰国も近きにあるべしとの推測より、習志野収容所の俘虜を見んとて、近頃四方より老若男女相携へて俘虜収容所に入り来り、柵外を散歩しつつ俘虜の情態を打眺むる者多く、収容所附近に新築された掛茶など思はぬ利益のありと言えり。」(千葉毎日新聞10月17日付)「竹矢来の外は毎日毎日見物人が山を為して居るが、門を入って親しく其生活状態を視察する人数も亦少くない中で、尤も多いのは小学生の参観で、試みに去る12日(月曜日)視察に来たれる諸学校の校名及人数のみを掲げても左の通の多数である。以って其平日に於ける観監人の数も想い知であろう。

 東京理科大学講師外2名、高等師範教授及生徒50名付添37人、市原郡里見高等小学校21名、同郡内田高等小学校119名、同郡鶴舞高等小学校113名、同郡明治高等小学校73名、同郡富山高等小学校47名、同郡高滝高等小学校72名、合計567人。」

 津田沼町内でも大久保小学校の沿革誌によると次の記録が残っているという。

 「明治38年3月23日 習志野へ捕虜収容所をおかれしを以て 捕虜に対する注意事項を生徒一同に訓諭せり。」

 「同4月20日 露国捕虜収容所附近にて天然痘発生の慮あるを以て、学校医田久保節造出張して生徒及職員に種痘す。」

 「同10月14日 午後より全生徒を引率して習志野俘虜収容所を参観す。」(「習志野市教育百年誌」より)
 習志野収容所として異色の参来者があった。1905年6月17日インド人10名が通訳2名を伴ってやってきている。前後するが、4月5日に北白川宮成久王、久邇宮鳩彦王、稔彦王の3殿下が陸軍中央幼年学校本科生150名と共に巡見されている。この時捕虜の軍楽手がフルートの吹奏を行っている。

 又皇后陛下より捕虜3名に義眼が下賜されている。その時の所長の達示文は次のようなものであった

 「アンデレリ・ペトリヤコフ
 フテパン・アレキサンドロフ

 イワン・オサドコーフ

我慈愛なる皇后陛下は汝が祖国の為に勇戦奮闘し負傷により眼球を失ひたるやを深く

愍然に思召され特に義眼を授け賜ふ。汝宜しく天恩の深きを感謝すべし。

 8月5日 森岡所長」

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