No.7 平成7年12月15日号 庶民の信仰と旅1 富士講

更新日:2022年09月29日

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 読者の皆さんの中には、「東海道中膝栗毛」での弥次さん喜多さんの愉快な旅をご存じの方も多いことでしょう。江戸時代の庶民にとって、諸国の神社仏閣を参拝することは、信仰のみならず道中の名所を訪ねられるまたとない機会でもあり、また、なにかと制約の 多い日常を離れられる慰安の旅でもありました。習志野市にもそのような信仰の旅を物語るものが残っています。数回にわたってご紹介しましょう。
 藤崎1丁目の畑の中にぽつんと小さな木立があります。その中には溶岩で作られた人工の小山があります。山腹には道が作られ、頂上には天保4年(1833年)の富士講記念碑が建てられています。この小山は富士塚とよばれ、富士山頂に詣でることにより災難から逃れられると信じられている富士山登拝の記念に建てられたものです。そしてこの富士塚は、病弱のため旅に出られない人や、女性(富士山は明治5年まで女人禁制)にとって、実際に登拝したのと同じご利益が得られるという信仰の対象でした。

畑の中に小さな木立や溶岩で作られた人工の小山があり、富士講記念碑が建てられている白黒写真

藤崎の富士塚

 また、当時は「講」(信仰を目的とした団体組織)を作って信仰の旅をしましたが村々を回って富士山登拝の勧誘をしたり宿坊の世話をしたりしたのが、御師〔おし〕とよばれる人々でした。当時の富士講は必ずどこかの御師に所属しており、御師にとっては壇家のような存在でした。習志野市域の村々が所属していた御師は上吉田宿(現在の富士吉田市)の小佐野家でした。人々は甲州街道を4日かけて上吉田宿に入り小佐野彷に宿泊、翌朝、富士浅間神社に詣でた後、山中で一泊しながら山頂を目指しました。帰りは、須走ロに下山するのが一般的で帰路大山阿夫利〔おおやまあふり〕神社(神奈川県伊勢原市)などをまわって帰郷しました。今でもこの小佐野坊には、市城の人々の宿泊の記録や、久々田村(津田沼の一部)の富士講が奉納した石灯籠をみることができます。
 現在富士吉田市には習志野市の富士吉田青年の家があり、多くの市民の方々に利用されていますが、遠く江戸時代にも市城の多くの人々の足跡が残されているのです。(社会教育課)

両サイドに石灯籠があり、奥には建物がある白黒写真

富士吉田の小佐野坊

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