No.6 平成7年11月15日号 石塔に刻まれた道しるべ

更新日:2022年09月29日

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 江戸時代まで、習志野市域の北側には成田山詣での人々の往来で賑わった佐倉道(成田街道を公的にはこう呼びました)が通り、徳川家康が鷹狩りをするために作られた御成街道や、房総の主要道であった房総往還(海辺の安"房"から下"総"への道)が市域を貫いていました。それらは信仰の道、生活の道また流通の道として重要な役目を負っていました。しかし、交通手段が徒歩が中心だった当時の人々にとって、不案内な道を通るのは、さぞ心細い思いだったことでしょう。そのような人々にとって、道中の支えとなったものが道しるべでした。市内に残る道しるべをご紹介しましょう。
 東金(御成)街道と県道幕張・八千代線の交差点(実籾町3丁目)の北側50メートルのところの民家の塀沿いに3基の石塔があります。中心の青面金剛塔の側面に宝暦3年(1753年)の年号とともに、「北 さくら道、南 海浜道」の文字があります。御成街道から主要な街道である佐倉道と房総往還にぬける間道をあらわす道しるべとして利用されていたのでしょう。このお宅の方のお話によると、本来は街道の交差点にあったものを、東金街道を拡張したおりに、今の場所に移したということです。

3基の石塔があり、真ん中の石塔の側面に年号や文字が刻まれた青面金剛塔の白黒写真

実籾の青面金剛塔

文字が彫られた百番供養塔の部分をアップにした白黒写真

屋敷5丁目 百番供養塔 「たけいしみち けミ川江」

 また、農協屋敷集荷所の向かいの屋敷5丁目の角にも天保3年(1832)の道しるべがあります。正面には「たけいしみち、けミ川江」、右側面には「みもみみち、ながさく江」と彫られています。塀があるため裏面の文字の判読は困難ですが、それぞれ人差し指で方向を示した手が浮き彫りにされていて、ユニークさを感じます。地元では追分塔と呼んでいました。これは大きな街道には面していませんが、間道のひとつとして利用された道に建てられていたのでしょう。
 このほかにも、千葉街道に面した鷺沼3丁目に「右は江戸みち」と彫られた墓標があります。きっと、多くの旅人が行き交ったことでしょう。
 これらの道しるべは、今ではその役目を終えましたが、江戸時代の人々の姿を感じさせる貴重なものであります。(社会教育課)

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