No.3 平成7年8月15日号 捕虜収容所として利用された陸軍しょう舎

更新日:2022年09月29日

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 習志野原は明治時代になり演習地としての活用が始まりましたが、演習に来る将兵が宿泊するために、現在の東習志野の地には廠舎〔しょうしゃ(注釈)〕が造られました。
(注意)廠舎…軍隊が仮設する、周囲に囲いがない簡略なつくりの小屋

ロシア人捕虜収容所の地図

日露戦争におけるロシア人捕虜収容所(地形図 大正7年)

 また、この広大な施設は日露戦争におけるロシア将兵、第一次大戦におけるドイツ将兵の捕虜収容所として転用されました。
 特にロシア人捕虜は約14,000人にものぼり、現在の東習志野2丁目から5丁目までの広大な土地に大規模な施設が建設されたようです。
 収容所では人種や宗教別に分かれて収容され、語学教室などが開かれました。また、近隣の人々が多数訪れるため、これらの人々をあてにした茶店が繁盛したことも当時の新聞が伝えています。
 ドイツ人捕虜は、中国青島での戦いにおいて捕虜になりました。習志野には約1,000ほどが収容されたため、日露戦争の時よりは小規模な施設が現在の東習志野保育所の場所に造られました。しかし、小規模とはいっても敷地内には「庭球場」や「フットボール場」などの施設があり、ここでの運動や月に1回の割合の所外への散歩の機会などが捕虜たちの心を慰めたようです。また、捕虜たちの間でオーケストラが編成され、演奏会が開かれたことにはお国柄が感じられます。徳島にあった坂東収容所で、ドイツ人捕虜によって、日本で最初にベートーヴェンの第九交響曲が演奏されたのはご存じの方も多いことでしょう。また、捕虜たちには、本国からの送金や、賃金が得られる労働(この他将校には給与が支払われていた)もあり、所持金の制限はあったものの、所内にある酒保で日用品や飲食物を買うことができました。
 しかし、捕虜たちは囚われの身であることには変わりなく、故国に対する望郷の念はさぞ深いものであったことでしょう。その思い果たせず、習志野の地で亡くなったドイツ人捕虜は、旧陸軍墓地(現在の船橋市営霊園・船橋市習志野2丁目)に葬られました。そしてこの地には、昭和46年に建てられた日露戦争における日本とロシア(碑文にはソ連)の戦没者、ドイツ人捕虜の慰霊碑3基が並んでいます。(社会教育課)

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