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習志野市 未来のために〜みんながやさしさでつながるまち〜習志野
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No.46 平成12年12月1日号 「街道を往く〜東金街道3」

更新日:2007年8月23日

「街道を往く〜東金街道3」

 嘉永〔かえい〕2年(1849年)3月、東金街道は多くの人や荷物でにぎわっていました。この月の18日に鹿狩が行われるからです。鹿狩は小金牧〔こがねまき〕(現在の野田市から千葉市にかけて広がっていた幕府の牧)で行われる将軍の狩猟のことで、江戸時代を通じて4度行われています。この時の鹿狩には地元の下総〔しもふさ〕はもちろん常陸〔ひたち〕(現在の茨城県)や武蔵(現在の東京都・埼玉県)や安房〔あわ〕・上総〔かずさ〕(現在の千葉県南部)の多くの村々の農民が、「勢子〔せこ〕」と呼ばれる動物を追い立てる人夫に動員されました。この勢子の世話役の一人に指名されたのが実籾村の名主だった桜井太郎左衛門でした。このため、特に実籾村のあたりでは遠方の村々から動員された農民たちが街道を往来し、たいへんなにぎわいを見せていたのでした。
小堤〔おんづみ〕村(現在の横芝町)の記録(神保家文書)によると、小堤村の農民たちもこの鹿狩に動員され、3月14日朝6時ごろ村を出発し、その日の午後2時には実籾村に到着、そのまま詰宿〔つめやど〕となる実籾村の次郎右衛門の屋敷に入り、持ってきた弁当を食べたりして、翌日まで休息をしています。16日早朝4時ごろ持ち場に向かい、ここから三日二晩野宿をしながら金ヶ作〔かねがさく〕(現在の松戸市)まで動物を追い立てています。18日は金ヶ作で十二代将軍家慶が槍で獲物を突くのを見物し、午後2時ごろ解散をしています。鹿狩に動員された農民たちには祝いの酒樽が振る舞われたと言われていますが、多くの農民は小雨が降る中をまちまちに帰村していったと記録には書かれています。
 この鹿狩は、当時日本近海に出現していた外国船の脅威に対する軍事演習の意味合いがあったとも言われています。当日の獲物の多くも、事前に生け捕りした鹿や猪を牧に解き放したものでした。また、当日は見物人も多く、見物人相手に商売をするものがいたと記録にあることから、この鹿狩が幕府の権威を示す大イベントであったことが分かります。しかし、皮肉にも幕府が倒れ、東金街道を進む官軍の姿が見られるのは、この鹿狩からわずか19年後のことでした。

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