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習志野市 未来のために〜みんながやさしさでつながるまち〜習志野
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No.42 平成12年6月1日号 「習志野概観(1)」

更新日:2014年4月10日

「習志野概観(1)」

 首都圏のベットタウンとしての性格を持つ習志野市は、市域の南側一帯が東京湾に面し、古来から良好な地理的条件にあって、貝塚が市内に多く見られます。
 現在は海岸から1キロメートル以上離れている藤崎や谷津、花咲などにも貝塚が存在するのは、旧石器時代の終わりから縄文時代にかけて温暖な気候の時期が訪れ、そのため海岸が今よりも内陸に入り込んだ「東京湾海進」といわれる状態にあったためです。食糧が比較的手に入れやすく、また山間部と比べ危険な野生動物が少なく、気候が温和で移動のしやすいこの土地は、先人達にとってもやはり住み良い場所だったのでしょう。
「ならしの」という地名、あるいは習志野市内の地名が歴史に登場するのはかなり後になってからで、その初めと思われるものは、鎌倉幕府の事績を描いた「吾妻鏡」です。この中に、鎌倉幕府成立前の源頼朝挙兵の際、千葉常胤〔つねたね〕とともに上総から下総へと軍を率い鎌倉を目指す折に「鷺沼御旅館」に頼朝が立ち寄ったとされる記述があります。
その後、近世に入り、文書や絵図等に「谷津」「藤崎」「久々田」(現在の津田沼付近)「実籾」等の村名が散見されるようになります。千葉街道や東金街道筋の村々は、この時期にはすでに成立していたことがわかります。
 では、「ならしの」という地名はどうでしょう。
現在のところ市史にも紹介されている説によれば、この地名の由来は近代まで時代を下らなければなりません。
 それは明治6(1873)年に行われた陸軍の大演習に端を発するというものです。この年の4月、明治天皇は、かつて「下総国小金原牧」として幕府直轄の放牧場であった広大な土地を利用して行われた陸軍大演習に行幸、演習での陸軍少将篠原国幹〔くにもと〕の働きを誉め、「みならえしのはら(見習え篠原)」の意と、また「兵を馴らす」の意から「ならしのが原」としたのが始まりとされます。(注)
 ちなみに、この時に総指揮を執った陸軍大将は西郷隆盛であり、のちに、その嫡男の西郷寅太郎が、第一次世界大戦中の習志野ドイツ捕虜収容所長として赴任してくるのは不思議な縁です。

 明治6年(1873)4月末に演習が行われた当時、その場所は「大和田原」と呼ばれていました。「小金原」「小金牧」はもっと広い範囲を指しています。演習の後、5月になってから明治天皇が「習志野原」と命名し、陸軍の演習場にするよう命じました。
 上の本文中、篠原国幹の働きにちなんで命名されたとする説が紹介されています。この説は広く流布していますが、これを裏付けるような同時代の史料は確認できません。

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