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習志野市 未来のために〜みんながやさしさでつながるまち〜習志野
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ロシア捕虜収容所と高津廠舎

更新日:2010年12月16日

 ところで、このロシア捕虜収容所はどこにあったのか。石崎申之さんが軍人として1916年(大正5年)習志野陸軍廠舎に来たとき、上官より、この廠舎が元のロシア捕虜収容所の建物であり、その収容所は「実籾台」一帯にわたっていたと聞かされたという。
 廠舎とは演習にやってきた兵士の仮宿舎である。建物は太平洋戦争前の地図であれば、その場所と建物の位置が明示されている。1918年(大正7年)の大日本帝国陸地測量部製の地図では、現在の東習志野一帯にわたって、糧秣廠倉庫(現在の習志野高校の所)、高津西廠舎(現在の東習志野2丁目の所)、高津東廠舎(現在の東習志野3丁目文教地域)。厩舎と捕虜収容所(現在の東習志野5丁目)が並んでいる。その区域は南側は現在の東習志野保育所の南側から実籾十字路、そして習志野高校の前を結ぶ道路であり、一部は江戸時代の野馬土堤が境界になっていたのである。北側は現在のマラソン道路(戦前までは演習鉄道路線)、東側は千葉市との境界である大和田街道、西側は習志野高校の西側である。

 「実籾台」というのは、マラソン道路を北方に越えて現在の鈴木金属と日立製作所の南側にある排水路の所(当時駒止谷と呼んでいた)までを指していたから、廠舎の区域よりははるか北方まで広がっていたこととなる。

 いわゆる「捕虜収容所」と呼ばれ、戦前の地図にも明示されている区域と建物は、東習志野の南東端にあるのであるが、これは1915年(大正4年)に、第一次大戦時のドイツ捕虜約4,600人を収容するために新築されたものである。これについては、石崎さん、梅沢さん、渡辺さんの古老たちの証言が一致するし、東京日日新聞の次の記事が立証している。「日独の俘虜は東京其他の寺院等に収容されたれど、今度千葉県習志野に1,300坪の収容所を新築することに決し、陸軍省にては既に22日を以て建築請負人に競争入札を命じ43,000円にて近藤某に落札せり。落成の上は浅草本願寺其他に在る俘虜を同所に移住せしむる由。収容所のみにて1,300坪あり、その他所員の詰所、炊所、物置、附属舎等数百坪に及ぶ筈なれば随分規模の大なる新築なりと。」(大正4年6月24日付)

 渡辺 勇次郎さん(明治31年生れ、習志野市実籾3丁目在住)は次のように言っている。

 「明治38年の頃野馬土堤より向う(北側)の土地は実籾の人たちが坪4銭(「はぎ」というタバコ1個の値段であったが)で軍に売ったのである。現在の習志野高校の所では三山の人たちの土地が3割ぐらいで、実籾の人たちの土地が7割ぐらいであった。当時ここでは(渡辺さんの家)裏の林から雉や兎が家の中に餌を取りに入ってくるようであったから、ロシアの捕虜の声がここまで聞えてきたものである。ロシア捕虜が去ったあと第一五師団が収容所のあとに1年間ぐらい駐屯していた。この一五師団が分散して去る時に収容所の建物の一部もいっしょに松戸や四ツ街道やその他に運ばれたのだ。残った建物が高津廠舎と現在習志野高校の所になった糧秣廠倉庫である。」

 高津廠舎は、関東のみならず全国から軍隊が演習にやってくる「習志野陸軍演習場」に対応できる大規模な廠舎であった。それがロシア捕虜収容所のあとをついだのである。それ以前は廠舎はどこにあったのだろうか。それは1882年(明治15年)の地図(陸軍測量部作製)で一目瞭然である。その頃の廠舎は現在の自衛隊駐屯地付近を第一営とし、北の方へ第七営まで並んでいたのである(現在船橋市習志野台町の南側あたり)。梅沢宇面さんによれば、「子供の頃(日露戦争時)薬園台にある学校へ行く時に傍を通った。その建物は藁葺であった。その管理事務所は現在薬園台にある郷土資料館の所になった。」ということである。

 その頃、演習場を地図では「陸軍練兵場」と称し成田街道より北側、現在の船橋市習志野台町一帯に広がっている。成田街道より南側の現在の自衛隊練習場(旧陸軍演習場)は薬園台、三山、実籾、高津の各村の農民の山林や畑地であった。その民有地が陸軍に買い上げられてゆくのは、習志野に騎兵旅団が設置される1899年(明治32年)以後である。騎兵一三、一四、一五、一六連隊の演習場としてその拡大が必要となったのであろう。『日本騎兵史』(佐久間・平井編)では「(前略)この地は由緒ある習志野原の一隅で騎兵の訓練には最も好適であった。従来兵営は都市、ことに旧城址に設置されたものが多かったが、騎兵旅団の創設にあたりその特質に鑑み此地に設けられたのであった。(中略)騎兵4連隊の兵営が一所にあったので、騎兵といえば習志野、習志野といえば騎兵といわれ、騎兵の本舞台となった。」と書いている。

 単に騎兵連隊の演習地から全国的な軍隊の演習地に拡大されていくのは日露戦争開始の時日本の陸軍は13個師団であったのが、その戦争が終った時19個師団に膨張していたからである。そして、その第一五師団が前述の如く、戦後、ロシア捕虜の去ったあとの収容所の建物に入ったのである。その後、日本の帝国主義国家としての発展と共に軍備拡張と軍事の近代化が行われ、習志野の演習場も周辺の村からさらに民有地を加えて拡張され、整備されていったのである。

篠田 彬様(さいたま市在住)より寄贈されました。
(平成16年8月)

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