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習志野市 未来のために〜みんながやさしさでつながるまち〜習志野
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日露戦争と習志野の捕虜

更新日:2010年12月16日

 日露戦争は1904年(明治37年)2月10日に宣戦布告され、8月の遼陽会戦、黄海海戦、翌年1月の旅順開城、3月の奉天決戦と展開されたが、仁川沖での緒戦で撃破されたロシア軍艦ワリャーグ号の負傷兵が1904年3月10日松山に着いて以来、ロシア捕虜は続々、日本内地に送り込まれてくることになる。『軍医の観たる日露戦争』(陸軍軍医監西村文雄著)によると、「我が軍の手に落ちたる露国俘虜の総数は79,367名で、之を得たる主なる戦場は鴨緑江594名、得利寺485名、沙河381名、旅順開城に際しては43,975名(内海軍9,475名)、奉天附近20,773名、樺太4,698名等であった。」このうち72,408名を内地の捕虜収容場に収容したとある。そして「俘虜は其階級に応じて名誉を重んじ優遇を与え、健康の保全に勉め、衛生部員は博愛の慈心を以て之に接し、上司も亦屡々其の取扱の懇切なるべきことを訓示した。

 内地の俘虜収容所は松山には初めて之を開き、次で丸亀、姫路、福知山、名古屋、静岡に設け、翌38年に至り、似島、浜寺、大里、福岡、豊橋、山口、大津、伏見、小倉、習志野、金沢、熊本、仙台、久留米、佐倉、高崎、鯖江、善通寺、敦賀、大阪、弘前、秋田、山形の各地に逐次之を開設した。」とある。

 各収容所の捕虜収容数は、1905年1月11日現在では次のようになっている。

収容地 将校 下士卒
松山 533 2,854
似島 0 2,747
大阪 0 16,999
福岡 0 999
静岡 60 60
大里 0 2,960
名古屋 12 1,010
福知山 0 901
姫路 0 2,190
丸亀 0 350
605 31,070

(才神時雄『松山収容所』による)

 習志野に捕虜が送られてくるのは、1905年(明治38年)3月下旬のことである。それに先立ち『千葉毎日新聞』は3月20日付で、次のようなニュースを報じている。

「捕虜収容所新設

 連戦連捷の結果として帝国軍隊の収容せし捕虜其数益々多きに加えて今や松山、福岡、名古屋、大阪其他既設の収容所にては到底狭隘を告ぐるの有様となりしを以て、政府は更らに一大捕虜収容所建設の必要を感じ前日来適当の位置を求めつつありしが、其結果は県下千葉郡津田沼村字実籾及び大久保附近の広地に一大規模を以て新築する事に確定し、已に大部分の土地買収を終りて工事に着手せるが建坪数万、棟数亦た10を以て、日に継ぎ遅くも3ヶ月以内に竣工せしむべき見込みなりと云えば、落成の暁きには捕虜将卒の続々送致せらるるなるべく、尚ほ取締上差支なき限り将校に対しては附近民家の宿泊を許さるるの方針なるやに聞き及べば、同附近は云うまでも無く千葉町、検見川町、幕張町、船橋町辺に於ても之れが為め直接間接に利する処尠なからざるべし。」


 新聞のその後の記事を追ってゆくと、3月25日、26日、27日の3日間で最初の捕虜2,020名が到着している。これは奉天戦の捕虜12,000名が広島県の似島で検疫をうけたあと、伏見、大津、豊橋、佐倉、高崎、仙台の各地にも分配されたものである。

 東海鉄道大森駅より亀戸を通り津田沼駅に27日午後5時18分に到着した時の様子を次のように伝えている。

「駅に着くと既捕虜は着いて居た。列車に並行して2列になって居る。何れも例の通り乱毛の帽子に一様に茶褐色の外套を羽織って、宇品より附き添ひ来りし指揮者陸軍少尉時山太郎以下下士卒12名の令に従って収容せらるべく総数700名習志野に向ふた。垢の嗅プンと鼻をついて臭きは渠等が長陣の労れを知るべく、見物人の煙草喫ふを見ては眼の色をかえて手をつき出すも哀れに、手鼻かみつゝキョロキョロ見廻はす髯面怪やしくも不思議に見えたり。」

 習志野原の収容所に着いたばかりの捕虜は建物はまだできていなかったので、テントに入っている。1つのテントに8人が入り、100張のテントを1区として、4区に区切られていた。炊事場だけは急場しのぎに建てられていて、長さ17間幅4間半のものが、囲いの竹矢来に沿って5棟並んでいた。内には石を積んで竈をつくり一斗焚きの軍用釜が各棟20ずつ備えられていた。記者の目からみると、「早急の場合に処して之れ等のもの総べて仮設的なれど万般の用意周到にして、間然する処無きを見る。」の状態だったらしい。

テントに落ち着いた捕虜たちは、

「天幕と天幕の間の空地に1人がバケツ形の水呑に水を入れて頬を湿すと他の1人が剃刀を出して髯を剃って遣り、或は支給された2枚の蒲団にくるまって安眠高臥し、或は一松形の盤に向ふて木屑の駒を使って三々五々頭を鳩めて将棋を戦はし、或は糸を酒保で求めて服の破れ繕ふあり。之も酒保に求め来し白パン、堅パンを噛りながら舌鼓をうって茶を啜るあり、バイブル読みて沈思するあり、蒲団にくるまりながら、故郷をや思ふ輾転反側するあり。是は又汚わしい公然服の縫目をあさりて半風先生を平ぐるあり。打ち見る所、二三を除きては何れも戦陣中の穴居より逃れて此好家居を得たるを悦べるらしく莞爾として巻煙草長閑に吹かす様悠長なりや。」

 収容所長は衛戍司令官森岡大佐で、その配下の1ヶ中隊が東京麻布から来て外部の守備に当っている。収容所内の守備と一切の事務は習志野騎兵一五連隊の森川大尉、和田少尉が責任者である。収容係が、到着した日にパンと手拭と歯磨粉を配ってやったので、捕虜たちは大いに悦んだそうである。

 5月16日に佐倉から300名の下士卒が習志野に転送されて来ている。佐倉の将校10人は従卒10人を伴ってすでに4月13日高崎収容所に移っている。『佐倉市』(林寿祐著大正13年)によれば、「明治38年4月2日、露国捕虜320名収容せられる。9月16日、さらに習志野収容所へ護送せられる。」と記されているという。9月16日は5月16日の誤りであろうか。千葉毎日新聞は佐倉の収容所について次のように報じている。(4月13日付)

 「捕虜数は総じて310名、都小路相済社に145名、公会堂鹿州館に70名、鏑木町妙隆寺に52名、弥勒町勝寿寺に32名宛の下士卒を収容し、将校10名、従卒10名は裏新町富士屋事角田岩吉方に収容し居れるが、その階級氏名は左の如し。(中略)別に新町教安寺に捕虜事務所あり佐倉衛戍司令官越野中佐を所長として京都大尉、中村少尉、及川特務曹長、吉田、荒井両通訳及数多の下士卒を以て一切の事務を整理す。△炊事は将校の分は富士屋自身にて、其他は同町の大川儀衛門、高橋由八の両人請負ひて仕出しつつあり酒保は之も同町の為田平三郎というもの1人にて請負ひ日々日用品を捕虜に供給し居れり。(中略)△渠等は目下定まわる用もなきままに其の習慣たる食後2時間位の昼寝と、将校はトランプ下士卒はシャカシャカと称する将棋の如きもの及び球投げなどをなして日を送る(後略)」

 5月18日名古屋収容所より下士卒250名が習志野に転送されてきている。さらに5月24日から31日までの7日間で浜寺(大阪)と馬場より5,950余名が到着し、7月18日現在11,800名に増えている。その他日付不明であるが、大津、金沢よりの転送もあったということである。いずれも将校は含まれていなかった。

 収容所の建物は3月以来大急ぎで工事が進んでいたらしいが、7月に入って大部分完成して、先着の捕虜がテントより移っている。下士以上1室8畳敷へ2人または3人、兵士は大広間数10人の割りである。亜鉛葺のバラックであるが天井が高いので夏でも暑くないという。なお、建築がいかに大規模で大急ぎであったかは次の記事からもうかがえる。

「習志野行職工の逆戻り

 下総習志野の俘虜収容所が大急ぎで建築と聞いて、久し振りの大儲けは此時だと職人連は5割増の呼声に気乗りして飛出すも夥しく、大工はほんの必要なだけの道具箱を担ぎ石工は1袋の鉄槌を肩に投げかけ、両国から26銭の汽車賃を払って総武線の津田沼駅より目的地へ入り込む。連中は少くとも毎日340人を下らず、差も広き習志野収容所の工事場は大工、石工、土方等にて3,000余人の著しき数に達したるが、此辺は兵営前に10余軒の商家と附近に数軒の農家あるのみにて、宿泊せんとするには半里余も隔たりたる大久保村か或は成田街道の薬園台村に赴かざるを得ず。去れば強いて農家の店前を借受けるものありしより、此まで10畳敷にて1ヶ月22、3円の飛値を現はし、僅か3畳敷の物置同然のものさえ6円以上に引上げたれば、縦え5割増の賃金を貰ひたりとも一室占領などは中々思ひもよらず、10畳敷へ20人も鮨付となって押合ひへし合い、一夜の雨露を凌ぐといふ有様にして、此の上毎日の弁当は外国米入のも5銭宛で大焚出場より買い入れ、酒といへば1合7銭のものが酒とは名ばかりのアルコール水にて、8銭5厘も出して漸く東京の5銭位しか飲めず、其他の食事もこれに準じ孰も眼の球の飛出るようなものばかりとて自ら愚痴も滴したくなり、ベランメヘ江戸ッ子様だ、こんな原の中で何が楽みで斯んな苦しい思いをするのだ。銭が残らぬ位なら寧そ家に寝てゐた方が増だいと、先着の気早連はポンポン言って舞戻るもの引きも切らぬ有様なりといふ。」

 7月13日、収容されていた非戦闘員(衛生部員)88名が解放され、帰国するために神戸に向って出発している。

 7月28日樺太捕虜452名が来着している。これは日本軍が7月8日南樺太コルサコフを占領したときに陸軍大佐アルチシュフスキー以下将校24名、下士以下466名、コルサコフ州長官その他の文官(家族共)154名、非戦闘員15名が捕えられ、船で青森に着き、将校は仙台に、文官・非戦闘員は神戸もしくは長崎で解放せられ、下士卒のみが習志野に転送されてきたものである。

 8月17日から23日にかけて、北樺太の捕虜2,770名が到着している。これはアレクサンドロフ附近で捕虜になったもので、リャーノフ中将ほか幕僚将校13名は弘前、仙台に送られ、下士卒のみが送られて来たのである。

 その他にも習志野収容所への入所があったらしく、9月24日現在で15,005名となっている(これに加えてこの収容所での病死者11名がある)。又、転送されて来たもののうちに、旅順戦役、日本海戦役(2,000人)の捕虜も居たという。

 9月下旬は収容所の建築は75棟完成している。ここで全体の構造を記しておこう。

 収容所の土地総面積55万坪。廠舎は1号から75号までの棟がある。1つの棟は間口4間奥行20間で、中央が通路で長いテーブルがあり、その両側が寝室になっていた。そして、1号から25号までが第一区、第26号より50号までが第二区、51号から75号までが第三区と分けられていた。その他第二区には本部ならびにパン焼場、縫靴工場があり、3区以外に普通病棟6棟と伝染病棟3棟があった。又、各区ごとに事務所、炊事場、寺院(礼拝堂)、酒保、湯室、遊戯室、洗濯室があった。

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