被爆学生服の展示
被爆学生服を展示しています。

被爆学生服
市庁舎1階展示コーナーにおいて、市民より寄贈されました被爆した学生服を展示しています。
被爆当時の資料は、被爆地でも大変な資料とされ、より多くの方に悲しい事実を伝えています。 戦後75年を経て、衣服などの直接被爆資料は、広島、長崎市では貴重な資料として扱われています。
寄贈者の意に応えるためにも、よりよい条件を整えて永く保管・展示し、戦争の悲惨さ、核兵器の恐ろしさ、平和の尊さを直接訴える平和啓発資料として、広く市民の閲覧に供するものです。
被爆学生服について

市庁舎1階での展示の様子
学生服を着ていた方は、8月6日の朝、広島県賀茂郡西志和村の自宅を発ち、学校へ向かう途中、広島市中区の白神社前に停車していた市営電鉄の路面電車の中で被爆しました。翌日探しに出た父親に発見されましたが、被爆から6日目の8月11日に亡くなられました。
寄贈者は、当時3歳でしたが、被爆された方の左手の小指が親指ぐらいの大きさに腫れ上がっていたのを記憶しているそうです。
その時の様子について介護にあたった方は
「電車の中で左手で吊り革につかまり立っていたところを、左後方から熱線を浴びたようだ。背中と腕にひどい火傷を負い、着用していた服のその部分が溶け、焼けただれた皮膚に付着して、脱がせるのが大変だった。親戚は病院の医師だったが、治療法もわからず、薬もなく、介護といっても赤チンを塗ったり湿布をしたりすることしかできなかった。
水をしきりに飲みたがったが、大火傷の人に水を飲ませるのは、よくないというのであげなかった。死ぬものとわかっていれば、飲ませてやればよかったと後々悔やまれた。」
と仰っていたそうです。
白神社は、広島の爆心地、島病院から約500メートルの至近距離にあり、この付近は原爆さく裂と共に、数千度の熱線、1平方メートル当り19トンの爆圧と秒速280メートルの爆風を受けたと想定されます。周辺の木造家屋は瞬間的に粉砕され、鉄筋構造物は総崩れとなり、更に、被爆直後に熱線から起こった火災で、燃えうるものはすべて焼き尽くされてしまいました。
長崎市山里小学校の被爆石
山里小学校 被爆石
被爆服展示ケースには、平成元年に長崎市から譲り受けた、長崎市立山里小学校の被爆石が一緒に展示してあります。
(注意)山里小学校の被爆石は平和の広場モニュメント内にも埋め込まれています。
この記事に関するお問い合わせ先
所在地:〒275-8601 千葉県習志野市鷺沼2丁目1番1号 市庁舎4階
電話:047-453-9301 ファックス:047-453-5578
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更新日:2022年09月29日