No.125 「習志野」と「習志野市」(過去・現在・未来)【2024年10月1日号】
習志野という地名や呼び名は市外に多く存在しますが、なぜでしょうか。船橋市には「習志野」「習志野台」「西習志野」という行政区があり、「習志野駅」、「北習志野駅」があり、陸上自衛隊「習志野駐屯地」があります。実は習志野と呼ばれる地域や駅は、習志野市よりも船橋市に多く、印西市には有名なゴルフ場もあります。
「習志野」の名前の由来は、明治6年に現在の習志野市・千葉市西部・船橋市・八千代市・鎌ケ谷市にかかる野原(大和田原)で実施された軍事演習をご覧になられた明治天皇がその場を「習志野原」と命名されたことに始まります。
富国強兵政策の下、演習場の周辺、とりわけ津田沼駅から大久保地区にかけては全国から人や物が集まり賑わっていました。そして、昭和10年代、既にあった千葉市と船橋市に挟まれた習志野原を構成する7つの町村が合体して大きな習志野市を建設する「大習志野市構想」が当時の吉野信 津田沼町長を筆頭に進められていました。構想当時の面積は現在の船橋市の1・8倍(約144㎢)にも及ぶものだったと記録されています。しかし、第二次世界大戦の勃発等により実現には至りませんでした。
戦後、新しい憲法の下で地方自治体となった津田沼町は戦前から任命されていた白鳥義三郎町長(初代習志野市長)が初めての公選町長としても継続されたことから、多くの旧軍用施設が教育施設やインフラ設備として引き継がれました。このことで都市環境が維持された津田沼町は再び「市制施行」を目指しました。
そして、昭和29年8月1日、津田沼町から習志野町に改名した上、千葉市となっていた旧幕張町の一部が編入され、人口要件等を満たして「習志野市」となりました。
大構想に比べるとかなり小さな面積(現在約21㎢)となりましたが、地域の伝統に軍都時代の新しい設備や情報を加味して育まれた習志野市は特に昭和時代に革新的な成長を遂げて今日まで歩んできました。
習志野の名前が生まれて150年、習志野市が誕生して70年、先達から豊かさが紡がれてきました。
一方、今後はこれまで経験したことがない「人口減少」局面に入ります。先輩たちから受け継いだ豊かさを現代で使い切ってしまい、後世に迷惑をかけるわけにはいきません。未来に豊かさを継続していくために、実は課題が満載で「工夫が必要」です。
その工夫の源は市民の皆様のご意見と参加です。
「習志野市」は今後も変化に対応しながら常に前進していきます。
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更新日:2024年10月01日