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No.63 平成15年 6月1日号 篠原国幹ってどんな人?

更新日:2014年10月28日

新ならしの散策 No.63

篠原 国幹ってどんな人?


 習志野からの旅行者が鹿児島にある西郷隆盛の右隣の墓前で感慨深げにたたずんでいました。この理由が分かるでしょうか?
 ここに眠る篠原国幹〔くにもと〕は薩摩藩(鹿児島県)出身で、天保7年(1836年)生まれ、通称を冬一郎〔とういちろう〕と言いました。藩校の造士館〔ぞうしかん〕で学び、戊辰戦争に参加しました。江戸城明け渡し後の上野での戦いでは、彰義隊(元幕臣の軍隊の名称)が最も要害とする黒門口を攻撃しました。激戦となり西郷隆盛は退去命令を出しましたが「一歩も退くに能〔あた〕わず」と攻め落とし、武勇をとどろかせました。明治4年(1871年)の廃藩置県の際には、鹿児島常備隊大隊長として、東京で不測の事態に備えました。その後は陸軍少将となり、近衛(注釈1)局長に就任、近代陸軍、近衛隊の創設に尽力しました。同6年4月29日に近衛都督〔ととく〕元帥(注釈2)の西郷とともに、大和田原で行われた明治天皇観覧の陸軍大演習に参加しました。4月30日、暴風雨で天皇自らも全身ずぶぬれになる中、篠原が指揮をとり、見事な奮戦ぶりを示しました。その後、天皇が彼を近くに召し、篠原に習えという意味から「今日よりこの地を習志野原と名づけ、操練場と定む」と褒めたたえたのが習志野の地名の由来といわれています。
 明治6年には征韓論に敗れた西郷とともに鹿児島へ帰郷し、村田新八らと私学校を創設して、子弟の教育にあたりました。人柄は大変無口で潔癖であり、豪傑猛者〔もさ〕の印象に加え、沈着冷静さを備えており、鹿児島士族に大変慕われたそうです。その後、やむなくたたねばならなかった西南戦争に、一番大隊長として参加し、戦死しました。享年42歳。日ごろから「お冬〔おっとう〕どん」と呼び、信頼していた西郷は遺体を前に落胆、激しく涙し、悲嘆にくれたといいます。
 今でも明治神宮外苑の絵画館では、習志野原での演習の模様が「習志野原演習行幸」として掲げられています。

(注釈1)近衛・・・天皇を守る御親兵のこと
(注釈2)都督元帥・・・全軍の統率者

補足

  1. 「その後、天皇が彼を近くに召し、篠原に習えという意味から「今日よりこの地を習志野原と名づけ、操練場と定む」と褒めたたえたのが習志野の地名の由来といわれています」と文中にあります。演習から半月後の明治6年5月13日、明治天皇が近衛局長官だった篠原を召して、習志野原と命名し、操練場にせよと命じたことは『明治天皇紀』などに記されており、確かと考えられますが、「篠原に習え」という意味で名づけたという説については、確実な史料の裏付けがなく、歴史的な事実ということはできません(新ならしの散策No.98参照)。
  2. 「明治神宮外苑の絵画館では、習志野原での演習の模様が「習志野原演習行幸」として掲げられています」とあるのは、聖徳記念絵画館(大正15年開設)に展示されている明治天皇・昭憲皇太后の歴史画80点のうちの、「習志野原演習行幸」(小山栄達画、西郷従徳により奉献、昭和4年)のことです。

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