ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play

概要

習志野市 市勢要覧2020

れきし歴史江戸時代に習志野は下野牧という幕府直轄の牧場で、明治六?一八七三?年に陸軍の練兵場となりました。この時、明治天皇が「習志野原」と命名しました。習志野という名前の由来には諸説ありますが、その一つに、明治六年に明治天皇観覧のもと、西郷隆盛の総指揮下で大規模な演習が行われ、篠原国幹少将の指揮が特に見事だったことから、明治天皇から「篠原を見習うように」とのお言葉があり、「習え篠原」から「習志野原」になったというものがあります。原始から近世習志野の命名秋山好古と騎兵旅団西郷寅太郎とソーセージ今から二万数千年前の旧石器時代の遺跡が市立第一中学校周辺で、縄文時代の集落の跡は「藤崎堀込貝塚」などで発見されています。奈良時代・平安時代では谷津および奏の杜周辺で大規模な集落跡が確認され?谷津貝塚?、半農半漁の暮らしをしていたことを知ることができます。鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には源頼朝が「鷺沼御旅館」に滞在していたという記述があります。江戸時代には江戸近郊の生産地として発展しました。徳川家康が東金方面へ狩りに出かける途中に藤崎を通りかかり、見事なフジの花が咲いていたので、村名に「藤咲」と名付けたといわれています。郷寅太郎陸軍中佐。寅太郎は明治天皇のはからいでドイツに留学した経験を持ち、人道的な対応をしました。所内では捕虜のオーケストラがベートーヴェンの「運命」やヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」を演奏し、チャップリンの映画が上映され、体育祭も開催されていました。この時、ソーセージの製法が伝授されました。カール・ヤーンら職人が西郷所長の熱心な説得により秘伝を公開し、農務省の講習で全国の食肉加工品業者に伝わりました。習志野が「日本のソーセージ製法伝承の地」と呼ばれる由縁です。住民との交流もあり、地元の主婦たちは洗濯を請け負い、子どもたちは捕虜の演芸会を楽しんでいました。ドイツ兵が小学生にプレゼントしたボトルシップが残されています。そして明日へ市指定文化財「ボトルシップ」明治三十四?一九〇一?年、日本陸軍初の騎兵第一・第二旅団が創設され、明治三十七?一九〇四?年、「日本騎兵の父」秋山好古が日露戦争で旅団長として中国に渡り、世界最強ロシア・コサック騎兵と戦い、日本陸軍を勝利へと導きました。習志野の騎兵の華とうたわれた西竹一中尉は昭和七?一九三二?年のロサンゼルスオリンピックの馬術で金メダルに輝きます。愛馬の名前はウラヌス号。日露戦争後、鉄道連隊が創設されました。JR津田沼駅そばにある千葉工業大学には鉄道連隊表門が残されています。第一次世界大戦時、東習志野に習志野俘虜収容所が開設され、ドイツ兵捕虜約一〇〇〇名が収容されていました。所長は西郷隆盛の長男の西昭和二十九?一九五四?年、千葉県で十六番目の市として習志野市が誕生。高度成長時代の波に乗り、東京への通勤圏内であったことからベッドタウンとして発展。昭和三十?一九五五?年に三万人だった人口は、昭和四十六?一九七一?年には十万人を突破。平成二十八?二〇一六?年には人口十七万人を越え、いまもなお、首都圏の中核都市として発展を続けています。真ん中に吊ってあるのがソーセージ。右から2人目がカール・ヤーン。21 NARASHINO CITY