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習志野市 未来のために〜みんながやさしさでつながるまち〜習志野
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習志野の“海” 【8月1日更新】

更新日:2017年10月2日

習志野市歌に歌われる “水辺” はどこ?

 毎日午後5時に、防災行政無線から「習志野市歌」の一部を抜粋した曲が流れているのにお気づきでしょうか。4月までは「夕べの星」を放送していましたが、5月からしばらくの間、水曜日を除く毎日の夕刻を知らせる定時チャイムを習志野市歌のオルゴール調に変えて放送しています。
 現在の習志野市歌は、平成26年に習志野市が市制施行60周年を迎えたのを機に、今後50年、100年と歌い継がれていく歌になってほしいという思いを込めて新たに作成したもので、子どもから大人まで口ずさむことができる曲になっています。
 歌い出しの歌詞は次のようなものです。

♪ 朝の陽(ひ)溢れて さわやかに
  水辺の鳥たち 歌だより
  自然の息吹が みちみちて
  大地にみどりの みどりの風が吹く … ♪

 みなさんはこの歌詞から、習志野市のどのような情景を思い浮かべるでしょうか。菊田水鳥公園、森林公園、谷津干潟、茜浜ウォーターフロント… 
 本市は、都市化が進む中にあっても貴重な自然環境を市民が身近に感じ、生活のうるおいとなる快適性を向上させるため、都市マスタープランにおいて、「緑と水の拠点」及びこれらをつなぐ都市の骨格となる「緑と水の南北軸」「緑と水の東西軸」を位置づけています。
 今回はこれらの中から、習志野の海について、記してみたいと思います。
 夏は海!!

水と緑の方針図(都市マスタープラン)
水と緑の方針図(都市マスタープラン)

鷺沼にクジラが打ち上げられた!

 袖ケ浦西近隣公園には、クジラのモニュメントが設置されています。
 この辺りは、埋め立てられる前は東京湾に面した広大な浅瀬が広がる海でした。
 明治28年から30年頃のことですが、この鷺沼の海岸に長さ12間もの大きなクジラが打ち上げられた話が伝わっています。
 12間というと、21,22メートルといったところでしょうか。隣の幕張村との境あたりに打ち上がり、体の9分どおりが鷺沼村の浦に入っていたのですが、尾びれが少し幕張村にかかっていて、二つの村の間でお互いに「こりゃ、おらのものだ」と言い争いになったそうです。結局は、「頭が鷺沼に向いてんべ」ということで、鷺沼村のものになりました。
 このクジラのうわさはあっという間に広がり、遠くからも多くの見物客が鷺沼にやってきました。村の人たちにとっては村が潤う千載一遇のチャンス、小舟を出して見物客を乗せ、一人3銭の見物料を取ったそうです。
 やがてこのクジラは浅草の方へ売られていきます。「クジラ一頭、七浦潤す」という言葉がありますが、そのお金で津田沼小学校の分校がやっと鷺沼に建ったといった話も残っています。
 120年前、習志野の海岸ではこんな大騒動があったのですね。

初代津田沼村長の塩田の夢

 明治22年、谷津、久々田、鷺沼、藤崎、大久保新田の5村が町村制に伴い連合を組み、人口約4,500人の津田沼村が誕生しました。初代の村長には、谷津の伊藤弥一氏が選ばれました。
 江戸時代から行徳あたりの海浜ではさかんに塩づくりが行われていましたが、明治になり国産塩の生産が奨励されるようになると、塩づくりは東京湾内の各地に広がりました。津田沼村長の伊藤弥一氏は、谷津3丁目一体の海岸に約23ヘクタールもの広大な入浜式塩田を拓き、「伊藤新田」「谷津塩田」などと呼ばれていました。
 入浜式塩田は、堤防を築いて外部の海と区切り、潮の干満差を利用して堤防内に海水を取り入れ、その海水を砂浜に散布して天日で濃縮し、さらにそれを釜で煮詰めて塩を精製するというものです。
 明治32年から36年にかけては、農商務省の塩業試験場が置かれ、新たな製塩方法等や気象条件による塩の良し悪しなどの研究が行われていました。
 また、明治43年には塩田の一部を利用して、津田沼養魚株式会社が作られ、魚が不足したときに売り出されました。
しかしこの塩田は、明治44年7月の台風や、大正6年10月の台風による暴風雨と高潮で壊滅状態になり、閉鎖されてしまいます。

 この谷津塩田跡地は、大正14年に京成電気軌道株式会社(現在の京成電鉄株式会社)が買収し、京成はここに谷津遊園を開設しました。谷津遊園は昭和57年12月に閉園になるまで、海水プールや潮干狩り、海上ジェットコースター、バラ園など、海と花を中心とした東京近郊のテーマパークとして、多くの人々に親しまれ、賑わいを見せてきました。
 現在この場所は、谷津パークタウンと谷津バラ園に生まれ変わり、日々潤いのある市民生活が営まれるとともに、習志野の魅力の発信拠点の一つとなっています。
 伊藤弥一氏は、谷津塩田の開拓に15万円の私費を投じたといわれています。明治中期の物価は現在の約4000分の1ですから、いかに津田沼村初代村長の意気込みが強いものであったかがうかがえます。
 伊藤氏が海にかけた塩田の夢は、自然の脅威の前にいったん潰えたかにみえますが、実は伊藤氏が開拓したこの地は、その後の習志野の賑わいや発展の基礎ともなっているのです。

習志野の海にもたくさんの魅力が!

 ご紹介したように、かつて習志野市の海には干潟が広がり、豊かな幸を人々にもたらしました。二度にわたる埋め立てで、海の恵みを糧とする生活は習志野市から姿を消しましたが、今も習志野の海は市民に憩いと安らぎを与えてくれています。
 茜浜の海岸に沿って広がる茜浜緑地の茜浜緑道は、関東の富士見百景に選定されており、例年2月17日前後と10月24〜25日前後に、ダイヤモンド富士を観測することができます。冬の海に映える夕日が美しいことから「茜浜」と名付けられたこのあたりは、サンセットポイントとして注目を浴びているだけでなく、反対側の幕張メッセの高層ビル群の眺望もよいところです。

 茜浜の海岸から菊田川の河口を挟んで東側の芝園の海岸は、清掃工場や浄化センターといった後背施設が連続するため、しばらく管理用道路が続きますが、その先の海岸線は垂直護岸から階段状の親水護岸に変わり、訪れた人が直接海に接することができるようになっています。
 この親水護岸は千葉県が整備を進めたもので、全長470メートル、平成16年度から一般開放がなされています。高潮からの防護機能を高めるだけでなく、自然石や水辺に降りる階段部分が設けられていて、市民が海にふれあえる憩いの場にもなっています。海を眺めながら気持ちよく散策することができる穴場のスポットです。

 そして、谷津干潟。谷津干潟は、もともとは広大な干潟の一部でしたが、千葉県による周囲の埋め立てによって、今のような約40haの長方形の干潟として残りました。現在、谷津干潟の周りは住宅地や学校、道路などで囲まれているので、池や湖のような雰囲気がありますが、2本の水路(谷津川、高瀬川)で東京湾とつながっており、潮の満ち引きがあることによって、さまざまな生物の命を育み、多くの渡り鳥が飛来するふるさとの海、干潟としての環境が残されているのです。
 歴史もあり、また、まだまだたくさんの魅力とポテンシャルが残されている習志野の“海”。この夏皆さんもお出かけになってみてはいかがでしょうか。

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