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習志野市 未来のために〜みんながやさしさでつながるまち〜習志野
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地域とダイレクトにかかわれる市役所職員は住民のプロ 【6月1日更新】

更新日:2017年6月15日

西郷隆盛と習志野

 NHKの大河ドラマ「おんな城主 直虎」では、村人の訴えや家臣とのせめぎあいに苦心惨憺の日々を送る直虎の姿が描かれています。駿河の大名今川家傘下の一領主にすぎない直虎は、領内でもめごとがあったり、目付け役に疑念を持たれたりすると、その度に駿府に出向いて今川家に申し開きをしなければならなくなってしまいます。
 地方分権改革が進んで、今は国も都道府県も市町村もそれぞれの役割を担い、お互い対等・協力関係にあることになっていますが、実際のところ、国県からの補助金や交付金を大きな財源として財政運営を行っている市としては、国県の意向を無視することは到底できません。
 直虎が覚悟を決めて駿府へ赴く姿を見るにつけ、県の担当者に「習志野市さん、これいったいどうなっているのですか? 説明に来てください。」と言われて、蒼い顔をして県庁に向かううちの職員となんだかダブって見えてしまうのは自分だけでしょうか。

 

 この大河ドラマ、来年は明治維新150年であることを機に、西郷隆盛の一生が描かれる予定です。
 ドラマの題名は「西郷どん(せごどん)」。「せごどん」とは、地元鹿児島の人が「西郷さん」を尊敬と親しみを込めて呼ぶ方言だそうです。
 地元の名士が大河ドラマの主役に取り上げられたということで、鹿児島はもちろんのこと、全国各地の鹿児島県人会も大いに期待が高まっているようです。

 習志野市においても西郷隆盛とのかかわりは地名の由来に関係するほど深いものがあります。
 明治6年6月、陸軍近衛隊(天皇を守る親兵隊)の都督元帥になっていた西郷隆盛は、当時大和田原と呼ばれていた演習場で、明治天皇観閲の下陸軍大演習を挙行しました。その際、幕末の薩摩藩の時から西郷隆盛を支え続けてきた篠原国幹陸軍少将の見事な指揮ぶりに感銘を受けた明治天皇が、篠原の名前をとってこの地を「習志野原」と名付けたと伝わっています。
 大河ドラマでこの陸軍大演習が描かれることがあるのかどうかはわかりませんが、篠原国幹は確実に登場してくるでしょうから、この名前を見たら習志野の地名の由来と関係のある人なんだな、と思いを馳せていただければうれしく思います。

 

 習志野市との直接のかかわりでいえば、西郷隆盛よりも嫡男の西郷寅太郎の方がはるかに強いものがあります。
 西郷寅太郎は、大正4年9月から大正8年1月までの3年5か月の間、現在の習志野市東習志野にあった第1次世界大戦中の「ドイツ兵習志野俘虜収容所」の所長を務め、そこで亡くなっているのです。

ドイツ兵捕虜に心を砕いた西郷寅太郎

 西郷寅太郎は、父西郷隆盛が反逆者として敗死した後、明治天皇の思召しでドイツの士官学校に13年間にわたって留学していた経験があり、ドイツには深い理解を持っていました。そればかりでなく、西南の役で父も名誉も全てを失い、戦争の悲惨さや敗れた者のみじめさを身をもってよく知っていた人物です。
 このような西郷寅太郎所長の下で、俘虜収容所内では畑が耕され、そこで収穫された作物をもとにビールやワイン、ドイツ菓子なども作られました。劇団やオーケストラも結成され、音楽会や観劇会、屋外映画会などが開催された記録が残っています。西郷寅太郎所長は、国際法(ハーグ条約)の人道主義の精神をもって、俘虜たちを寛大に処遇したと考えられます。
 私が西郷寅太郎に最も感銘を受けているのは、寅太郎の最期の日の出来事に関する逸話です。
 寅太郎が亡くなったのは大正8年、1919年の元日です。当時、歴史的なパンデミックと言われるスペイン風邪(新型インフルエンザ)が世界中に猛威をふるっていて、全世界で4000万、5000万人とも言われる死亡者が出ました。当時の日本の人口は5500万人、そのうち約2300万人が罹患し、約38万人の死亡者が出たという統計が残っています。
 習志野俘虜収容所の中でもスペイン風邪に罹患する者が相次ぎ、一人でも多くの捕虜が無事に祖国へ帰国することを願っていた寅太郎はさぞ心を痛めたことでしょう。
 しかし、その寅太郎自身がスペイン風邪にかかってしまいました。元日の朝、高熱を出していた寅太郎は医師が止めるのも聞かず、乗馬で収容所へ向かいます。年頭のあいさつとして敗戦の衝撃に沈んでいるドイツ兵を励まし、この新年が彼らにとって帰国の年となることを伝えようとしたのでした。寅太郎はその日の夕方、亡くなったそうです。
 最期の一瞬までドイツ兵捕虜に心を砕き、収容所という仕事の現場で斃れた寅太郎の生き方は、現代においても大きな示唆を私たちに与えてくれるものと思います。

地域住民とダイレクトにかかわれる市役所職員

 領民の直接の訴えに四苦八苦する直虎も、捕虜であるドイツ兵に心を砕いた寅太郎も、自分の仕事の対象となる人たちに直接向き合い、ダイレクトなかかわりをしていく中で、相手の心に深く刻まれる仕事ぶりを発揮していきます。
 私たち市役所の職員も、地域の皆さんとダイレクトにかかわることができる仕事をしています。特に習志野市は、17万市民、21平方キロメートルの面積という、市民の顔が見えるコンパクトなまちであり、市役所から市内のどの現場であっても20分もあれば車で駆けつけることができます。
 習志野市は、このような特色を生かしながら、昭和43年から地域担当制を導入して市職員が直接担当の地域に出向いて地域の課題解決を図ったり、地区保健活動の拠点としてヘルスステーションを各地域に設置したりして、地域住民の皆さんとの直接のかかわりを大切にしてきました。

 冒頭に書きましたように、私たち市役所は国や県の意向になかなか逆らえるものではありません。しかしながら、地方分権、権限移譲などと言われて、国県から降ってくる仕事量は年々増すばかりであり、このまま黙って鵜呑みにしていては市役所はますます疲弊してしまいます。
 市役所だからこそできる仕事、市役所職員にしかできない仕事、それは地域の住民の皆さんと直接つながることです。そこを大事にすることによって、私たちは国や県にしっかりとものを言えるのではないかと思います。なぜなら、国や県は地域の住民の皆さんと直接つながることができないからです。
 机上の理屈で攻めてくる国や県に対抗して、私たち市役所職員がプロとして政策を進めることができる拠りどころは住民とのかかわりの中にあり、地域社会という現場の中にあります。現場こそ政策の宝庫、地域とのかかわりが政策を変えていきます。

 西郷寅太郎所長が亡くなった年のクリスマスの日、西郷所長の元日の約束どおり習志野のドイツ兵は収容所を出て、帰還船の待つ神戸や横浜に向かうことが叶いました。帰還兵は皆、帰国したら祖国の発展のために尽くすようにと命を賭して元日に訓示した西郷所長に対する感謝の念を強く心に刻みながら帰国していったといわれています。
 私たちも住民の皆さんとのダイレクトなかかわりの中で、「住民プロフェッショナル」として皆さんの心に刻まれるようなまちづくりの仕事ができるよう、頑張っていきたいものです。

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