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習志野市 未来のために〜みんながやさしさでつながるまち〜習志野
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名前のルーツ 【11月1日更新】

更新日:2016年11月1日

“習志野” の命名は明治天皇

 みなさんはご自分の名字の由来をご存知でしょうか。
 私は「眞殿」という少し変わった名字ですので、判子を探すのには苦労しますが、ルーツを辿ることは比較的容易でした。実家の仏壇には過去帳が残っていますので、息子が小学生だった頃、それを見ながら夏休みの自由研究で「眞殿家の家系図」を作ったことがあります。その時にわかったことは、過去帳に残されたご先祖様は文化文政年間(1804-30)まで遡ることができること、現在の兵庫県たつの市で代々暮らしていたこと、そして「真殿」の名前の由来は残念ながら「お殿様」ではなく、地名からきていることなどです。 

 たつの市からほど近い赤穂市の北東部に、「真殿」という地名があります。明治半ばまでは「真殿村」という村でした。赤穂市史によると、「真殿」という地名の由来は、「真」は本当の、という意味で、「殿」はしんがり、という意味、つまりこの世の本当のしんがりともいうべき‘最果ての地’、という意味だそうです。ご先祖様はこのような山里離れたところで、田畑を耕したり狩りをしたりして暮らしていたのでしょう。そのようなご先祖様のおかげで、今の自分があるのですね。
 みなさんもご自分の名字のルーツを辿ってみると、今まで知らなかったご先祖様の興味深い発見があるかもしれません。

 さて、“習志野”の名前のルーツはご存知ですか。諸説ありますが、“習志野”の地名は比較的新しく、明治時代に入ってから明治天皇が命名したといわれています。

“習志野” は習志野、八千代、船橋にまたがる広い地域を指す地名

 明治6年4月末、今の習志野市、八千代市、船橋市などの一部も含まれていた「下総国大和田原」という広大な原野で陸軍の大演習が行われました。この際、演習を総監した明治天皇が後日大和田原を「習志野原」と命名しました。現在の自衛隊習志野駐屯地には、明治天皇の命名書が残されています。
 命名の由来の一説として、この大演習の時に、豪雨の中全体指揮をとった篠原国幹(くにもと)少将の指揮が見事だったので、明治天皇が「篠原を見習え」から「習え篠原」、「習志野原」になったという説があります。
 当時の陸軍大将はかの西郷隆盛でした。篠原国幹は薩摩藩の出身で、西郷の片腕となって薩英戦争、戊辰戦争を戦い、明治維新後は陸軍少将となって近代陸軍、近衛隊の創設に尽力した人です。
 この時の陸軍大演習は暴風雨の中で行われ、天皇自らも全身ずぶぬれになる中、篠原が指揮を執り、見事な奮戦ぶりを示しました。その後、天皇は篠原を召し、篠原に習えという意味から「今日よりこの地を習志野原と名付け、操練場と定む」と褒めたのが習志野の地名の由来といわれています。
 このように、“習志野”という名は、今の習志野市、八千代市、船橋市にまたがる広い地域を指す地名として名づけられたものです。お隣の船橋市に習志野台、西習志野という町名や新京成「習志野駅」、「北習志野駅」があったり、陸上自衛隊習志野駐屯地が習志野市域には所在せず、船橋市と八千代市の行政区域にまたがっていたりするのは、この“習志野”という地名を巡る歴史的経緯が影響しています。

難産の末生まれた“習志野市”

 この、もともと習志野と名づけられた広い区域を纏めて“習志野市”にしようという構想は、以前存在していました。
 今から80年ほど前の昭和10年代のことですが、当時千葉市と船橋市に挟まれていた津田沼町・幕張町・犢橋(こてはし)村・大和田町・睦(むつみ)村・豊富村・二宮町の7町村が合併して、大習志野市を建設しようという構想がありました。その時期に津田沼町長であった吉野信氏は、この構想の実現のために奔走します。もしこの構想が実っていたら、習志野市の人口規模は現在の船橋市を超え、千葉市に次いで県内で2位、面積はおよそ144キロ平方メートルで県内6位、まさに千葉市や船橋市と肩を並べるほどの習志野市が誕生していたことになります。しかし、昭和16年(1941年)から始まった太平洋戦争と敗戦によって、大習志野市構想は実現には至りませんでした。

 戦後、新制中学校の設置管理、消防等の創設、社会福祉、保健衛生関係の新しい事務が市町村の事務とされ、これらの行政事務を能率的に処理できる基礎自治体とするための町村合併促進法が昭和28年に施行されたことに伴い、習志野市の前身である津田沼町も合併による新市の誕生を目指しました。
 津田沼町の町長白鳥義三郎氏は、最初二宮町(現在の船橋市)と合併をし、市制を敷くことを決めましたが、二宮町はこの決定を一方的に破棄して昭和28年(1953年)8月に船橋市と合併したため、構想は挫折してしまいます。
 二宮町を合併した船橋市は津田沼町にも合併を申し入れますが、白鳥町長はこれを断固拒否し、次に合併の相手として隣接する幕張町と犢橋村(こてはしむら)を選びました。3町村は昭和28年11月から合併協議会を開き、合併によって成立する市名を「習志野市」とし、新しい市役所を津田沼駅と幕張駅の中間に建設し、そこに「習志野駅」を新設することなどを決めました。

  しかし今度は、千葉市が「大千葉市構想」を掲げて、千葉郡の町村に千葉市への合併を強力に働きかけてきたのです。一方、幕張町、犢橋村にも千葉市との合併を主張する住民が多く、合併問題をめぐり町村が二分されるという事態になってしまいます。千葉市派の切り崩しは激しく、幕張町内では千葉市派に転向する地区が相次ぎ、このままでは人口が当時市昇格の基準である3万人に届かず、習志野市建設を断念せざるを得ないほどに追いつめられます。習志野市派の一部の住民は、県庁前でハンガーストライキを挙行して習志野市建設を訴えました。
 結局この紛争は、最終的には千葉県の調停もあって、幕張町は千葉市と合併、その後幕張町の一部が分離して習志野市を建設することになりました(さらにその後、天戸、長作などの地区は習志野市から千葉市へ戻りました)。
 

 こうして難産の末に習志野市は昭和29年8月1日発足しました。習志野市誕生を伝える当時の新聞には、「70余回の陳情の末」「雨降って地固まる」「住民の熱意に敬意」といった見出しが躍ります。

 習志野市はこのような変遷を経て、今の市域になっています。理想の都市、夢多き習志野市をつくろうという先人の苦労や、住民の熱意があったからこそ、今の習志野市があります。
 私たちは習志野市が誕生した時のこのような苦労や熱意を決して忘れることなく、これからも習志野市の名前に誇りをもって、しっかりと理想のまちづくりにまい進していきたいと思います。

習志野市PRポスター

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