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習志野市 未来のために〜みんながやさしさでつながるまち〜習志野
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頼朝が鷺沼にやってきた 【10月1日更新】

更新日:2016年10月1日

今年は千葉開府890年です

 大河ドラマ「真田丸」は、いよいよクライマックスの大坂の陣に向け、佳境に入ってきました。今の舞台は和歌山県九度山。実は真田信繁が生涯で一番長い歳月を過ごした地がこの九度山です。地元の英雄幸村ブームで九度山町はさぞ盛り上がっていることでしょう。

  さて、本市のおとなり千葉市は、今年2016年を「千葉開府890周年」と位置づけ、千葉開府記念式典や千葉開府祭、千葉氏サミットなどの事業を展開しました。
 今年は、1126年(大治元年)に千葉常重が現在の亥鼻付近に館を構え、都市としての千葉が誕生した千葉開府から890年という節目の年だということです。
 自分の住んでいるまちにそんな長い歴史があったのか、その頃にはどんなまちなみができていて、人々はどんな暮らしをしていたのだろう、などといにしえに思いをはせることで、私たちはわがまちの歴史にあらためて愛着と誇りを感じるようになりますね。
 先人たちの活躍の延長上に今のわがまちが形成され、私たちの生活が成り立ち、そして未来へと継承され、発展をしていきます。わがまちの歴史を知りそれを辿ることによって、わがまちの地域性が明らかになり、将来のまちづくりの方向性にかかる示唆を得ることもできます。
 今回はそんな観点から、おとなり千葉市への対抗心も少し燃やしつつ、源頼朝と習志野市の関係を書いてみたいと思います。源頼朝が天下を取れたのは、実は習志野のおかげ!?

石橋山の合戦に敗れた頼朝が体制をたて直した “鷺沼の館”

 平治の乱(1159年)で平氏に敗れた源氏の嫡流頼朝は、伊豆の地で流刑の身となっていましたが、20年後の1180年に平氏を撃つため挙兵します。しかし、頼朝は石橋山の合戦に敗れて、真鶴から舟で房総半島南部(今の鋸南町から館山市付近)へ逃れました。頼朝はここから内房沿いの街道(後に“房総往還”と呼ばれた街道)を北上し、平治の乱で源氏に味方した千葉常胤(千葉を開府した千葉常重の子)を頼ろうとします。
 このあたりの頼朝の動向について、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には、1180年10月1日のところで、「石橋山に於いて合戦の時、分散せしむるの輩は、武衛(頼朝)の鷺沼御旅館に参向す」との記述があります。
 また、翌日10月2日のところには、「大井墨田の両河をわたる、精鋭三万余騎に及び、武蔵国に赴く」との記述があり、頼朝が「鷺沼御旅館」で再び兵を整えて体制をたて直し、三万もの大軍となって、武蔵国の鎌倉を本陣とすべく兵を進めたことがうかがえます。
 現在の習志野市内の地名と考えられる「鷺沼」が、初めて公式の歴史書等に記載されたのがこの「吾妻鏡」の記述になります。
 「御旅館」とは、今の旅の宿のことを言っているのではなく、兵が陣を敷いているところ、あるいは豪族の屋敷があったり、旅人が使う馬の厩舎があったりしたところと考えられています。

 当時鷺沼の地には、館(やかた)を構える千葉氏傘下の豪族がいたのでしょう。習志野市役所のすぐ隣の小高い丘に、桜がきれいに咲く「鷺沼城址公園」がありますが、この付近からは埴輪や前方後円墳が出土しており、縄文時代から有力者が居住していた地であったことがわかっています。
 千葉常胤を頼った源頼朝でしたが、頼朝が実質的な体制の立て直しを図ったのは、常胤の館のある今の千葉市亥鼻ではなく、千葉氏の本陣からは少し離れたこの習志野市鷺沼の地でした。
 平氏に反旗を翻したものの、敗軍の将となった頼朝を直接本陣でかくまうことに常胤は少し躊躇し、傘下の鷺沼に住む豪族に、頼朝の身柄を預けたのかもしれません。
 しかしそれよりも、頼朝が鷺沼に滞在している間に、分散していた源氏の兵が短期間で再び集まることができたということの方が重要です。吾妻鏡は鎌倉幕府が編纂した歴史書ですから、三万もの兵がほんとうに集まることができたかどうかは眉唾ですが、それでも短期間に多くの兵が集まることができる交通の結節点であったということ、そして、この地に立てば、相当広範囲に周囲を見渡すことができた要衝の地であったということがわかります。

鷺沼は交通、産業の要衝の地

 平城京や平安京が栄えた頃、今の習志野市の地は「東海道」に属していました。というのは、このころの「東海道」は、相模国(今の神奈川県) の東京湾沿いの海岸線を北上するのではなく、三浦半島の走水(はしりみず)から海を経て富津に渡り、上総国、下総国へと続いていたのです。
 平安時代の歴史書「続日本紀」には、この街道の休憩地の一つである下総国の「浮島駅」は、交通も多いので馬を10匹に増やすという記述があります。この「浮島駅」は、今の幕張から谷津にかけての地のどこかにあったと推定されています。

 そう、頼朝は真鶴からやみくもに小舟で逃げ出し、南房総に流れ着いたのではありません。平氏の追跡を海路で断ち、律令時代から整備されてきた街道である東海道を北上し、そして周囲をぐるりと見渡せ、兵の体制を整えやすい街道の要衝の地「鷺沼の御旅館」に陣を敷いたのです。
 この後頼朝は鎌倉に入って指揮を執り、平家を倒して鎌倉幕府を打ち立てます。こうして見てみると、鷺沼の地こそが頼朝再起の場所であり、幕府を開くまでになったきっかけを作った場所だと思えてきませんか。

鷺沼の地で慕われてきたゲンタさま

 このように鷺沼は、奈良時代、平安時代から多くの人や馬が行き交い、豪族が館を構えて栄えた村でした。この地を治めていた豪族は、代々「ゲンタさま」と呼ばれ、村人からとても親しまれていたようです。
 鷺沼城跡公園から海の方へ下ったところに、下総三山の七年祭りの神事が行われる「神之台(かんのだい)」がありますが、この神事は、平安時代に都を追われた藤原師経がここに上陸し、海上ではぐれた姉たちに無事を伝えるために火を焚いたという故事に基づいています。この時に浜で火を焚き続けて藤原一族を助けたのも「鷺沼源太則義」だったといわれています。
 鷺沼城跡公園には鷺沼源太の石碑が立っており、代々この地に住むお年寄りの中には、今でもゲンタさまを敬愛して、石碑の前を通るときは被り物をとってお辞儀をしていく方もおられます。

 今回ご紹介した頼朝の話やゲンタさまの逸話は、習志野市市制施行60周年を記念して刊行された「習志野の民話」にも収められています。市民団体の「習志野民話の会」の皆さんが、習志野のぬくもりを民話で伝えたいという思いで集められた故事や言い伝えをもとに編集されたものです。
 秋の夜長、このような民話集を読みながら、習志野の地で受け継がれてきた人々の生活や風習に思いをはせつつ過ごすのもよいですね。

習志野の民話

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