No.9 平成8年2月15日号 庶民の信仰と旅3 成田山詣と成田道

更新日:2022年09月29日

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 市内を通る東金街道と船橋の前原で分岐しているのが、成田街道(国道296号)です。この道は直接は市域と接していませんが、市域の一部も含まれていた小金牧〔こがねまき〕を横断する道として、また信仰の道として、往来の多かった街道でした。
 今も多くの参拝者を集める成田山新勝寺〔しんしょうじ〕。ここも江戸時代の庶民にとって、信仰の旅の目的地でありました。新勝寺は天慶〔てんぎょう〕3年(940年)に、平将門〔たいらのまさかど〕の乱の平定を祈願して建立〔こんりゅう〕された寺で、古くから多くの信者を集めていました。しかし、その名が全国に広まったのは江戸時代になってからで、特に元禄〔げんろく〕16年(1703年)には江戸深川で出開帳〔でかいちょう〕(注釈)を行い人気を博しました。これ以後信者の組織である成田講が各地にでき、多くの信者を集めました。新勝寺山門周辺の旅籠屋〔はたごや〕や飯屋〔めしや〕が整ってきたのもこのころからです。
 本来江戸から佐倉までの街道は、江戸幕府によって佐倉道と命名されていました。しかしその先の成田山新勝寺への参拝者の増加にともない、次第に成田道とよばれるようになって、信仰の道としての性格が強くなってきました。成田山への旅の行程は、江戸を出発の後、船橋宿ないしは大和田宿で一泊、印旛沼の景観を楽しみながら、成田山に入り参拝の後、山門周辺の旅籠で宿泊、帰路は、もと来た道を戻るか香取や銚子方面に足をのばして、見聞を広めながら江戸へ戻りました。成田山での宿泊は、講での参拝の場合は、旅籠が決められており、これを「定宿」〔じょうやど〕とよんでいました。このように、江戸在住の庶民にとって、成田山詣は手軽な慰安の旅でもあったようです。また信州や伊豆方面からも、講を組織して多くの人々が参拝した記録が残っています。
 船橋宿と大和田宿の間が、現在の市域も含まれていた小金原でした。寛政〔かんせい〕10年(1798年)、成田までの旅をした人の日記には、「小金つづきの原といふを廿二〔にじゅうに〕町も過ぎ、小村あり。又茂みあり、折から蛍の飛び交う様のいと目出度〔めでた〕かりければ、たたずみて…」という記述があり、日も暮れると蛍の舞うような緑深い場所だったことがうかがえます。

(注釈)出開帳…社寺が、日頃は秘蔵する神仏・霊宝などを賑やかな都市などで公開すること。本来は布教が目的であったが、次第に社寺の修繕費等を得る日的も加わってきた。茶店や見世物小屋もでて、庶民にとっては行楽の楽しみでもあった。
(社会教育課)

東金街道と成田街道の分岐に立っている石塔の白黒写真

東金街道と成田街道の分岐に立つ石塔(船橋市前原)

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