No.2 平成7年7月15日号 騎兵の町・習志野

更新日:2022年09月29日

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 明治時代より戦前まで習志野の地は、騎兵連隊の基地として、また演習地として、蹄の音も高らかに数多くの軍馬が駆けめぐった場所でした。しかし、それ以前の江戸時代にも、馬と習志野には強い関わりがありました。
 江戸時代まで習志野市域は、広大な下総台地を利用して作られた幕府直轄の小金五牧のひとつ下野牧〔しものまき〕の一部を占めていました。この下野牧では馬の生産が行われていましたが、生産とはいっても、広大な原野に馬を放し飼いにし、1年ないし数年に一度、馬を捕獲し調教して利用するというものでした。この馬は野馬〔のま〕と呼ばれて小金牧全体で1000頭ほどがいたといわれています。
 この牧は、周辺に住む人々の生活に大きな影響を与えてきました。
 実籾町四丁目に通称実籾三叉路という交差点がありますが、ここは旧名「実籾木戸」と呼ばれていたように江戸時代まで木戸があり、小金牧と周囲の村々を隔てていました。また、周辺には野馬除け〔のまよけ〕土手がありました。これら木戸と野馬除け土手は、牧との境界をはっきりさせるだけでなく、野生馬として気性の荒くなった野馬が農民の耕作地を荒すのを少しでも防ごうとするものでした。

木々や雑草が生い茂った土手周辺の白黒写真

かつて存在した野馬除け土手

しかし野馬除け土手も、現在は実籾三叉路から習志野高校に向かう県道沿いの宅地の形に、かすかな面影をとどめているだけです。
 また、実籾村の旧家に伝わる古文書に、牧を管理していた役人(牧士〔もくし〕や野馬方役人)が見回りにきた時にかかった諸費用(宿泊費や賄いなど)を、村人で分担した記録が残っています。加えて、野馬を捕獲(野馬捕り)や日常の牧管理の業務にも人足として村人が徴用されていました。寛政11年(1799年)の記録では実籾村23人、藤崎村12人、大窪新田(大久保新田)7人、鷺沼村で15人が徴用されていました。
 このように、牧は周辺に住む農民の多大なる負担の上に存在していました。しかし、農民にはわずかながらも牧の恩恵にあずかれることがありました。それは、捕獲した野馬のうちから駄馬と認められたものを農耕馬として払い下げられたり、牧内の下草や樹木を採集したりする権利などでした。
 このような牧の歴史も徳川幕府の崩壊とともに幕を閉じ、広大な原野は開墾地として、また演習地として新たな利用が始められました。(社会教育課)

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