No.127 平成23年11月15日号 ロシア兵捕虜収容所

更新日:2022年09月29日

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ロシア兵捕虜収容所

 一昨年から放映されてきたNHKのドラマ「坂の上の雲」が、来月放映予定の第3部で完結します。このドラマでは、主人公の一人・秋山好古(よしふる)が、習志野の大久保にあった騎兵旅団を率いて日露戦争で活躍する姿が描かれています。
 日露戦争と習志野の関わりというと、他にも大きな出来事がありました。現在の東習志野一丁目から五丁目にかけての広大な範囲に、日露戦争で捕虜になったロシア兵の収容施設がありました。習志野俘虜(ふりょ)収容所といいます(「俘虜」は捕虜のこと)。
 日露戦争でのロシア将兵の捕虜は約8万人。このうち約7万2千人が日本に送られ、全国29か所の収容所に収容されました。習志野俘虜収容所は明治38(1905)年3月に開設されましたが、建物の建設が間に合わず、捕虜たちは当初写真1のようにテント暮らしでした。建物が完成したのはこの年の秋で、収容人数も約1万5千人に達しています(大阪の浜寺収容所に次ぐ規模)。ほとんどが下士官以下の兵卒で、将校はいませんでした。
 当時はまだ外国人が珍しい時代で、収容所の周りには多くの見物人がやってきたそうです。そして捕虜や見物人、収容所の建設に携わる職人相手の商店ができるなど、収容所周辺は一時的ににぎわっていたようです。
 日露の講和により、11月から捕虜のロシアへの送還が始まり、収容所は翌39年1月に閉鎖されました。この場所は習志野演習場を使用する部隊が一時的に宿泊する施設(高津廠舎(しょうしゃ))となり、第一次世界大戦時には一部にドイツ兵の捕虜収容所が置かれた場所でもあります。

 ロシア兵捕虜収容所についての詳細は、市ホームページ「日露戦争と習志野」(こんなまち習志野 → ならしの歴史・文化 → ならしのの歴史)または『習志野市史 第一巻 通史編』780 -783頁をご覧ください。

捕虜収容所テント前に集まっている多くの兵士の白黒写真

写真1:捕虜収容所開設当初のテント生活

間隔をあけて兵士が立っており、後方には建物が写っている白黒写真

写真2:明治38(1905)年12月撮影 個人蔵

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