No.101 平成19年9月1日号 習志野の地名4 東金(御成)街道と村の大移動-藤崎・実籾・大久保

更新日:2022年09月29日

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習志野の地名4 東金(御成)街道と村の大移動−藤崎・実籾・大久保

草木が茂り、丸太で出来た階段や手すりのある藤崎古道の写真

 藤崎には、東金(御成)街道がつくられるよりも古い、藤崎古道(こどう)と呼ばれる道が残されています。台地に上がる細い道は、木々が鬱(うっ)そうと茂り、古道の名にふさわしい道です。徳川家康が東金で行われる鷹狩りに向かう途中、この道を通り、辺(あた)りに咲いていた藤の花の見事さを讃え、この地を「藤咲」とせよと言ったそうです。「咲」の字は、藤崎の子安神社の祭神木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の名前を憚(はばか)って「崎」に替え、「藤崎」になったという話です。その後、東金(御成)街道ができると、古道は使われなくなり、街道沿いに家が建つようになり、現在の家並みが形成されたようです。

 東金(御成)街道がつくられて、村自体が大移動したのが実籾村と大久保新田です。実籾村はもともと実籾本郷にありましたが、現在の東金(御成)街道沿いに移転したと言われています。実籾の地名の由来はよく分かっていませんが、三山の「み」が二宮神社を指す「御(み)・神(み)」と考えられることから、実籾の頭文字の「み」も二宮神社と関係があるかもしれません。一方、幕張の古い記録には次のような不思議な話が載っています。昔、五月雨(さみだれ)が降り続いたため、村一帯が水につかったことがありました。その年の秋、稲に「二(ふ)た穂」が実り「実入穂」と「籾穂」が生じました。このことから村の名前を実籾にしたと言うものです。

 大久保新田は最初、現在ゆうゆう館がある本大久保のあたりに開発されたようですが、やはり東金(御成)街道の開通とともに、当時「弁天原」と呼ばれていた現在の場所に移転したと伝えられています。弁天原の地名は、弁財天の祠(ほこら)があったことから名付けられたようです。

 現在でも、災害やダムの建設などによって、村落がまるごと移動することがありますが、移動先でも元の村名をそのまま使うことが多いようです。その場合、元の場所を「○○本郷」や「本○○」などとする場合が多く見られます。実籾本郷や本大久保はその一例です。

 今の第一中学校がある辺りには、昔庄司が池(しょうじがいけ)という池がありました。この周辺に開かれたのが名耕地(なごうち)新田です。鷺沼に残されている『渡辺東淵雑録』によると、天保年間(1830年~44年)に船橋の商人大和(やまと)屋(川奈部佐五右衛門)が開発した新田で、もとは谷津村と船橋五日市村の入会(いりあい)地(注釈3)となっていたところです。「名耕地」の名前の由来については不明ですが、庄司が池の庄司は前原(船橋市)の上東野(かとうの)家が荘司(しょうじ)(荘園の管理者)を勤めていたことから名付けられたと伝えられています。

参考文献

『地名の研究』(柳田国男)
『実籾村誌』(『習志野市史 第二巻 資料編1』)

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