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No.70 平成16年 6月1日号 習志野騎兵旅団長 名将 秋山好古〔よしふる〕その二

更新日:2007年8月23日

新ならしの散策 No.70

習志野騎兵旅団長 名将秋山好古〔よしふる〕その二

 秋山好古はフランス留学から帰ると騎兵第一連隊長となり、日清戦争などで活躍をし、「騎兵など役に立たぬ」という当時の評価を一変させるほどでした。やがて、日本とロシアとの間の緊張が高まると、4つの騎兵連隊が大久保に置かれ、これから「騎兵の街 習志野」と呼ばれるようになりました。この頃から東金街道沿いを中心に大久保の街はにぎわいはじめました。
 1903年初夏、好古44歳の時、旅団長として大久保にあった騎兵第一旅団司令部に赴任しました。翌年から始まった日露戦争では中国の満州に渡り、当時最強を誇ったロシアのコサック騎兵と互角に渡り合う戦いをしました。特に沙河(しゃか)・黒溝台(こっこうだい)・奉天(ほうてん)の戦いでは、騎兵を時には歩兵として使い、時には砲兵・工兵とも連繋(れんけい)して戦うといった巧みな戦術を用い、2倍近い兵力のコサック騎兵を敗走させ、日本軍の危機を何度も救いました。好古の戦い振りは、陣中であっても大酒を飲みつつ、司令官でありながら先陣をきったり、ある時は殿(しんがり)をつとめたり、陣取りをする時も敵に一番近い位置で戦況を把握するなど、危険と常に隣り合わせの凄まじいものでした。一方、弟の真之(さねゆき)も日本海海戦における連合艦隊の作戦参謀として、ロシアのバルチック艦隊を破り、日露戦争講和への道を開く活躍をしました。秋山兄弟の活躍がなかったら、近代国家の道を歩み出したばかりの日本自体が危うかったともいわれています

 1906年2月16日、好古は満州から習志野に帰って来ました。その後好古は近衛師団長や陸軍大将などを歴任しますが、習志野の地にいた数年間こそ、好古の人生にとっても、日本にとっても重要な日々だったでしょう。それなのに、習志野と好古に関する資料は現在ほとんど残っていません。秋山好古に関することで何か心当たりや資料などがありましたら、ぜひ社会教育課までご連絡ください。 最後に好古の晩年について記すことにしましょう。陸軍大将にまでのぼりつめたにもかかわらず、愛媛県松山市の私立中学校の校長となった好古は自ら修身を担当し、毎日馬に乗って学校に通ったそうです。これなどは若い時に教師をめざしたことと関わりがありそうです。1930年11月4日永眠。享年72歳。

(注釈)その一は3月1日号に掲載しています。

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