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No.66 平成15年10月1日号 戦う農民たち −400年前の習志野市域 その1−

更新日:2007年8月23日

新ならしの散策 No.66

戦う農民たち-400年前の習志野市域その1-

 今年は、1603年に江戸に幕府が開かれてから400年目にあたります。当時の記録には、江戸は砂浜と入江が続く淋〔さび〕しい漁村だったと書かれています。それでは、その頃の習志野市域はどんな所だったのでしょうか?
 実籾の鴇田家文書の中に、年号のない古文書があり、文中の「うすい」という文字から「臼井藩」が存在した1590年から1604年の頃の古文書だということが分かりました。これには、次のようなことが書かれています。
 「以前、臼井藩が仲裁をし、堀を造って境を決めたにもかかわらず、実籾村の野へ、長作村(現千葉市)の者が無断で入り込み、草を刈ってしまった。実籾村で鎌を取り上げたところ、長作村の名主が、棒を持った村人を引き連れて、実籾村に押し入ってきた。2人の百姓が大けがをするほど殴られてしまった」

 江戸時代の農民は、武士に支配され言われるがまま年貢を納めていたと思われがちですが、土地争い・水争いなど、命に関わるような大事な時には、武器を持ち実力行使に出ることもあったようです。しかし、この場合問題になったのは「野」や「草」であり、「田畑」や「米」ではありません。なぜ、命をかけるほど野や草が大切だったのでしょうか。

 江戸時代を代表する肥料として、干鰯〔ほしか〕・油粕〔あぶらかす〕・下肥〔しもごえ〕などが有名です。しかし、関東地方でこれらの肥料が使われるようになるのは、江戸時代中期以降のことで、それまでの肥料の中心は刈敷〔かりしき〕・草木灰と呼ばれるものでした。刈敷は刈った草や小枝を田畑にすき込んで肥料とするもの。草木灰は文字通り草や木を燃やした灰を田畑にまくものです。十分な刈敷や草木灰を与えるためには、耕地と同じくらいの広さの野(草山)が必要だったといいます。
 やっと戦国時代が終わり、江戸幕府が開かれた頃、野を守り充分な草を手に入れることが、命をかけるほど大切だったことが伝わってきます。

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