No.65 平成15年?9月1日号 習志野開拓と昭和天皇

更新日:2022年09月29日

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新ならしの散策 No.65

習志野開拓と昭和天皇

 一望千里といわれた習志野原は、明治時代は軍が利用してきましたが、昭和20年(1945年)8月15日の終戦とともに、その役割は終わりました。
 その5日後、習志野学校の予備士官だった平林巌〔いわお〕は習志野開拓を決意。21日には新宿の農地開発営団を訪れ、支援を得ることに成功、全国に先駆けて開拓が始まりました。開拓入植者の宿舎は実籾の元陸軍東廠舎〔しょうしゃ〕(注釈1)にあり、入植者は戦後の食糧不足を少しでも補うために、炭焼き・製塩・営農・井戸掘りなどに分かれて毎日仕事をしました。しかし、当時の習志野原は戦車隊が見事に地固めしており、鍬〔くわ〕を下ろしても土を掘り起こせず、甘藷〔かんしょ〕(サツマイモ)を植えても、収穫したものが鶏卵と同じ大きさという有り様でした。
 そんな人々を励ましたのが昭和天皇のご巡幸〔じゅんこう〕(注釈2)でした。昭和21年6月6日午前に特別列車で東京駅を出発、水郷や銚子を視察し、新生〔あらおい〕駅(注釈3)で特別列車の中で仮泊されました。「これは空前絶後のことだった」とは入江侍従長の言葉です。食事も質素で、寝台も風呂もありませんでしたが、「戦災の国民のことを思えば平気だ」と昭和天皇は語られていました。翌日銚子漁港等を視察された後、千葉駅に午前11時ごろ到着、今度は車で戦災復興状況をご覧になりました。習志野原には午後3時近くに訪れ、実籾三叉路〔さんさろ〕付近の麦畑をご覧になった後、飯生治郎右衛門宅(現実籾3丁目11番3号)の庭先で甘藷苗の栽培に目を注がれました。さらに、県厚生寮(元陸軍西廠舎・現東習志野2丁目付近)で約300名の外地引き揚げ民を「よく帰ってきたね」と励まされ、また、一千余町歩の習志野原で400世帯の入植者が整地や種まきなど増産に努めている様子をご覧になられました。開拓の説明後、「ここの地味〔ちみ〕はどうなの?」などいくつも質問なされ、質問のひとつひとつに「ああ、そう」などとお答えになり、その場の一同の中には感激に涙する人もありました。この言葉は流行語になりました。この地は現在の東習志野4丁目付近で、現在も小高くなっています。
 その後、昭和天皇は千葉街道(国道14号)を通って皇居にお帰りになられました。
 昭和天皇は在任中、いちばんうれしくお思いになったこととして、「終戦後、国民が努力して、立派に日本の復興ができたこと」と挙げられています。そして、次のようなお歌を詠まれました。
 「わさわひを忘れてわれを出むかえる民の心をうれしくそ思ふ」

  • (注釈1)廠舎…演習時などの仮宿舎
  • (注釈2)巡幸…天皇が各地を回ること
  • (注釈3)新生駅…銚子近くの貨物ホーム。現在は公園

習志野開拓については、実花公民館の「フォーラムちえのわ」の方々が詳しいです。問い合わせは実花公民館へ。

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