No.62 平成15年?3月1日号 鷺沼・津田沼付近に東海道の駅があった!? 2

更新日:2022年09月29日

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新ならしの散策 No.62

鷺沼・津田沼付近に東海道の駅があった!? 2

 前号で、古代の駅を紹介しましたが、どのようなものだったのでしょうか。大化の改新(645年)以後、次第に官道が整備され、30里(注釈1)(約16キロメートル)ごとに駅家〔えきか〕(うまや)、駅馬〔はゆま〕が置かれました。この利用は、駅鈴(注釈2)を携える公的使者(官人)に限られていました。駅家の維持は近くの集落が担い、付属の水田を耕作しながら、馬を飼養(注釈3)し、使者の送迎や接待をしていました。この集落の長は駅長〔えきちょう〕(うまやおさ)といい、在地の裕福な豪族が任じられていました。

隠岐国駅鈴が2つ並んでいる写真

隠岐国駅鈴

隠岐国駅鈴本画像の写真

同拓本出典…吉川弘文館刊「国史大辞典第2巻」より

 鷺沼古墳は6世紀後半から7世紀にかけて造営された二基の豪族の墓ですから、埋葬者かその子孫が駅長だったのではないかと考えることも可能です。
 駅を往来していく使者の姿が浮かぶ和歌が残っています。
鈴が音の 早馬駅家〔はゆまうまや〕 堤井〔つつみい〕の 水をたまへな 妹が直手〔ただて〕よ (万葉集)
 駅鈴を響かせて走る使者が、駅家の水を求めている様子が伝わってきます。
 使者の速さはどれくらいだったのでしょうか。律令の規定では、通常で往きは8駅、帰京するときは4~6駅と定められています。ですから、1日130キロメートルほどすすんだわけです。計算すると、習志野から都まで5日半で到着することになります。一般の人が都まで歩いて30日ほど要した時代ですから、かなりの速さだったことがわかります。
 使者や税を運ぶ人が行き交ったこの道は習志野のどこを通過したのでしょうか。海沿いの道なので、国道14号線を想像しがちですが、江戸時代の文献に「今の鷺沼の地方は、割拠のころ(注釈4)までは海潮岸を浸し、往年の道に非ず」(注釈5)「谷津村に至れば、左方家居続きて、久々田村までの間に海面みやらず」(注釈6)とあるので、現在の14号線よりも内陸側だったろうと思われます。今後この説を確定するために、道路遺構や条里遺構、浮島駅を示す土器などの出土が待たれます。

  • (注釈1)当時の1里は約0.5キロメートル
  • (注釈2)公的使者(官人)に下付される鈴のこと
  • (注釈3)飼い養うこと
  • (注釈4)戦国時代の群雄割拠のころを示す
  • (注釈5)「金ケさく紀行」
  • (注釈6)「鹿野山日記」

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