No.58 平成14年9月1日号 すもうの話2 習志野出身鳳凰〔ほうおう〕、大関

更新日:2022年09月29日

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新ならしの散策 No.58

すもうの話2 習志野出身鳳凰〔ほうおう〕、大関となる

 前号で紹介した習志野出身の角力〔すもう〕取り三代川寅之助は、少年時代から体も大きく、力も強く、船橋の造り酒屋大和屋へ奉公中に米俵を手玉にとって人々を驚かせました。船橋は草相撲どころでしたから、近在に名をとどろかせたことでしょう。

三代川家蔵大関昇進記念のセピア色の写真

大関昇進記念写真(三代川家蔵)

 明治19年、20歳になって、意を決して二代目が馬加〔まくわり〕村(現幕張)出身だった宮城野馬五郎に入門し、初土俵は菊田山と名乗りました。(この命名は菊田神社からと推察されます)その後序の口では荒海〔あらうみ〕と名乗り、23年5月に幕下、そして24年1月に鳳〔おおとり〕と改め、25年1月に十両入りして鳳凰と改名、26年1月には新入幕を果たしています。27年には下の名を馬五郎と改め、同年、亡き師匠の籍に入り五代目宮城野となり、現役で親方となったのです。(戸籍では入夫〔にゅうふ〕と為るとある)29年1月西前頭筆頭で8勝1敗、5月東関脇で8勝1預かりの最優秀成績(当時は大阪、東京それぞれ東西制で、個人優勝制度ではなかった)で、1年2場所制だったので今なら連続優勝破竹の勢いとも言ってもよいでしょう。
 鳳凰は180センチメートル、116キログラムでした。五代目阿武松〔おおのまつ〕親方が「体格は近年著しく発達し、貫目〔かんめ〕も備わり天晴れ〔あっぱれ〕大関の風情あり」と評しています。取り口は右四つからの出早の寄り、極めだし(泉川)を得意として、当時の小錦八十吉、朝汐太郎を好敵手として活躍していました。
 そして、鳳凰馬五郎はついに明治30年1月に力士の最高位である大関に昇進し、その場所堂々と最優秀成績に匹敵する星をあげました。当時横綱は名目的で儀式を行うものでした。
(つづく)

協力…ベースボールマガジン社相撲編集部(宮城野の代には諸説あるが、最も新しい説を採用した)

明治30年1月の番付表の図

当時の番付表を「角力新報」から再現(欄外とは、今でいえば張り出しです)

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