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No.54 平成14年2月1日号 ならしの“よもやま話” 阪妻・関東撮影所

更新日:2015年9月10日

新ならしの散策 No.54 

ならしの“よもやま話” 阪妻・関東撮影所

 大正時代末から昭和二十年代まで数多くの映画に出演し、「阪妻」と呼ばれ親しまれた大スター、阪東妻三郎のことは、年配の方なら多くの方がご存知のことと思います。しかし、この阪東妻三郎が、谷津海岸で映画製作をしていたと聞くと、驚かれる方がいらっしゃるかもしれません。昭和5年(1930)、阪妻は松竹との提携を解消し、翌昭和6年2月、京成電鉄の後援を得て谷津遊園内に大日本自由映画プロダクション阪妻関東撮影所を設立しました。4月に開所式が開かれました。
 この撮影所には、ステージ、現像室、一般写真室、倉庫および守衛詰所などの建物があり、ここで、「洛陽餓ゆ」以降、無声映画38本、サウンド版(音楽つき無声映画)2本が撮影されました(注)
 撮影にはこの辺りの多くの方がエキストラに参加しました。特に、田畑などが少なかった農家の人にとっては、一日80銭のこのアルバイトは、とても魅力的で、中には本格的に勤めてしまった人もいたようです。
 ここで撮影された映画のほとんどは時代劇だったので、エキストラの人は撮影所に行くと、まずカツラ合わせをし、竹光(たけみつ)をさしました。そして、時間に制限がなかったので、出る幕でない時はじっと座っていたそうですが、映画の撮影は、エキストラに参加した人にとっては、目新しいことばかりでした。
 敷地の中にはセットの家がたくさんあり、酒屋や縄のれんなどは外から見るとそれらしく見えるのですが、内面はがらんどうでした。岩や山のセットは竹や材木で作ったものにむしろをかぶせ、それらしい色をだしており、屋根だけのシーンは、直接、屋根を地面に置いてから撮影をしていました。専属の俳優が37名、照明や道具、裏方などの仕事をする人がエキストラの役とし83名の大所帯でしたが、阪妻は、自分の出番以外の時はじっといすに座っており、回りにはお付きの人が、いつも5、6人いたそうです。
 エキストラの役としては、ほとんどが、後ろの方でみんなでワーワーと騒ぐという程度のものでした。しかし、時には御宿などへのロケーションもあり、道具持ちとして一緒に参加することが、みんなの楽しみの一つでもあったようです。
 そんな谷津の撮影所でしたが、時代はちょうど無声映画からトーキーへの移行期にさしかかっていました。谷津は海岸の風や飛行機などの騒音が多く、トーキーの撮影には不向きだったようです。昭和10年(1935)、阪妻はトーキー第一作「新納鶴千代」の製作を開始しますが、撮影は谷津でなく京都で行われました。このころ個人プロダクションの経営に行き詰まりも感じていたようで、翌昭和11年に個人プロダクションを解散します(翌年日活に入社)。11年末に谷津の撮影所は閉鎖されたようです。
 その後、撮影所跡地は谷津遊園の敷地として使われ、戦後の昭和32年(1957)には、東洋一といわれたバラ園が開園し、昭和57年(1982)の谷津遊園閉園まで親しまれました。現在は、昭和63年(1988)に新しく開園した谷津バラ園となっています。

(注)このほかに、昭和10年10月から昭和11年12月までの間に、阪妻関東撮影所等の名義で9本のトーキー作品が公開されていますが、これらについては、全てが谷津以外の撮影所で撮影されたとする説、「夜明け烏」以後の6本は谷津撮影とする説があります。

(付記)『広報習志野』掲載時の記事に誤りが確認されましたので、訂正いたしました。

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