No.44 平成12年10月1日号 「街道を往く~東金街道1」

更新日:2022年09月29日

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街道を往く〜東金街道1(注釈)

 江戸幕府は関ヶ原の合戦以後、政権の確立と安定のため東海道や中山道などの重要な街道を整備しました。東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中を「五街道」といい、いずれも江戸を起点とする主要道で、これ以外の道は「脇往還」あるいは「脇街道」と呼ばれていました。
 現在の習志野市内を通っていた街道としては「東金街道」と「房総往還」の二つがあります。このうち、東金街道は現在の船橋市前原から成田街道と分岐し、藤崎・大久保・実籾を経て現在の千葉市犢橋〔こてはし〕へ向かい、東金に至る延長約37キロメートルに及ぶ道で、現在の県道長沼・船橋線にあたります。徳川家康の鷹狩り等のために造営されたことから「御成街道」とも呼ばれています。
 家康の命を受け東金街道の造営にあたったのは佐倉城主土井利勝で、「従船橋東金新道作帳」によれば、藤崎村や犢橋村、武石村など街道付近の村々から高根村(現船橋市内)・坪井村(同)など比較的街道沿いから離れた村々に至るまで、多くの人々が動員されて工事が進められた様子がうかがえます。
 工事期間は、慶長19年(1614年)から元和元年(1615年)にかけて約1年という、当時の技術からすると驚くべき速さでできあがったようです。
 開通後には、前原・大久保・長作などの新田が街道沿いに開かれ、江戸時代の後期から近代にかけては東金街道は物資の輸送や、軍用道路としての役割を担うこともあったようです。
 江戸時代、五街道や主要な脇往還には、一里ごとに一里塚をおいて松などの木を植え、旅人の目印としていましたが、東金街道の一里塚は実籾(大原神社近くの実籾踏切[実籾本郷側])に置かれ、椎の木が植えられていました。この椎の木は、現在第二中学校の校門脇に移植されて、今も静かに生徒たちの成長を見守っています。
注釈:No.44〜46の東金街道は、県道長沼船橋線のことをさします。現東金街道(国道126号線)ではありません。

道路左脇に建物や木々が建ち並ぶ東金街道の白黒写真

現在の東金街道(習志野市実籾)

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