No.43 平成12年7月1日号 「習志野概観(2)」

更新日:2022年09月29日

ページID : 4730

習志野概観(2)

 文教都市として発展したわが習志野も、戦前は軍都としてその名を全国に知られた街でした。前回、明治6(1873)年の習志野原における陸軍大演習の話を書きましたが、近代に入って以後、明治・大正・昭和を通じ、終戦に至るまで、習志野には数多くの将兵や軍事訓練の学生が訪れ、そしてまた、その中の多くの人々がこの地から戦地へと赴いていったのです。
 軍都として中心となった地域は、明治29(1896)年に高津廠舎〔しょうしゃ〕が建てられ、日露戦争や第一次大戦では捕虜収容所なども設けられた東習志野地区、また、明治34(1901)年以後、第一・第二騎兵旅団司令部が置かれ、陸軍病院などもあった大久保・泉地区、さらには大正7(1918)年から鉄道第二連隊が置かれた津田沼地区などが挙げられます。

通用門に国旗が掲げられた鉄道第二連隊表門を正面から写した白黒写真

鉄道第二連隊表門(現・千葉工業大学通用門)

 習志野原は、もともと幕府直轄地の下総小金原の牧として、広大な野原でしたので、当時の陸軍演習場としては格好の地だったのでしょう。初期の習志野原は首都やその周辺に展開する部隊や陸軍諸学校からの演習部隊や生徒受け入れのため、廠舎を建設し、さらにそこへ日清・日露と続く戦争に備えて騎兵連隊や旅団司令部、騎兵学校、さらには陸軍病院、鉄道連隊といった、前述の各軍用施設が次々と設置されていった結果、「軍都習志野」が成立したのです。
 津田沼や大久保には軍隊に品を納めたり、将兵との商売を中心とする雑貨店、食料品店、酒屋、馬糧店、写真館などが増えたようです。また、将校の間には近くの大きな農家や寺社などに住居を借りる例もあったようです。
 このように軍郷として発展した習志野のまちは、昭和20(1945)年8月15日の終戦を境に、国の復興と軌を一にして、まちづくりの大きな方向転換をし、ついに昭和29(1954)年には県下で16番目の市となりました。
 今ではすっかり美しい並木通りや閑静な住宅街に姿を変えているこの地も、地図を片手に、往時をしのびながら少しゆっくり歩いてみると、戦前の慰霊塔や記念碑、あるいはそれにまつわる解説板などを見つけることができ、まだ多くの軍都の名残を残していることに気付かされます。
 みなさんも、休日を利用し歴史散策におでかけになってはいかがでしょうか。きっといままで知らなかった、もうひとつの「わがまち習志野」を発見されることと思います。

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