日本人の捕虜観

更新日:2022年09月29日

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日本人の捕虜観について

 ポーツマス講和条約の締結が近づいた頃、日本語を多少解する捕虜たちがうすうす知ってか、いつ送還されるのかと聞く者が多くなってきた。ついに条約は1905年9月5日に調印された。11月7日から東京において、本郷中将とダニロフ中将の間に俘虜引渡条約が結ばれた。11月11日より横浜・神戸・長崎の3カ所で引渡しされることになった。松山では講和条約批准公布の10月16日をもって、ロシア将校に軍刀が還付され、外泊旅行までが認められたという。帰国に際しては車5台の土産を買った者がいた。(前掲『松山収容所』)
 習志野では11月9日騎兵連隊の第一陣が盛大な歓迎のなか華やかに凱旋してくると、入れ替って捕虜の帰還が始っている。最初の送還は旅順の捕虜1,989名で10月3日騎兵旅団司令部の前に整列して、収容所長衛戍司令官森岡大佐の訓示を受けると、津田沼駅に向っている、帰国の際東京に入り宮城や名所を観光することができたのは収容所全体で百名に限られたという。同日横浜に到着した一団はロシア戦艦ヤロスラ号に乗船している。

 帰国の出発に際し収容所内ではあちこちで別れを惜しみ、帰還を祝して讃美歌を歌ったり、小宴会を開いていたという。帰国の土産は酒保で買われ、主なるものは玩具、人形、漆器、竹細工、シャツ、東郷大将の絵ハガキだったという。

 旅順の捕虜に次いで奉天の捕虜、その次は他の捕虜という順序で続々と去っていったのである。残留組の出発は1906年(明治39年)の1月になったようである。

 また、帰国に先立って収容所第一区の酒保矢嶋定五郎氏は、捕虜たちを1日慰労しようと所内に子供の軽業師を呼んで見せたところ1,000人が集ったという。収容所側も市中音楽隊を招待して音楽を捕虜に聞かせたり、撃剣柔術の会を催した。また、ある有志は土産話にと東京東方力士一行を所内で興行させようとしきりに運動したという。(結果は確認できなかった。)ついでに書き添えておくが、佐倉収容所でも習志野に捕虜を転送する際に、剣術の試合を見物させている。これは、佐倉の旧藩士及付近の剣士10数人が、ロシア捕虜に我国の武術の精致を見せようと係官に願い出て行ったものである。

 さて、これまでの捕虜の生活と日本人の対応を見てきて、後世の日本人の捕虜や敵国人に対する態度に比べ、非常に異なっているように思える。梅沢宇面さんは「日本人はロシアやドイツの捕虜に親切であったと思う。向うのいうように欲しい物を用立て、交換してやった。そのために警察には叱られたけれど。ドイツの捕虜が、ここ(「原の一軒家」)に寄った時など私の2歳の娘を抱かせてくれというのでそうさせたが、妻も子もある人が異国に来てかわいそうだと思った。」と言っている。

 実籾の古老たちも「ロシア捕虜は大へん珍しいので近所、特に実籾の子供達はよく見に出かけたようだ。陽気な性格で大きな声で歌をうたいながら働いていた。」といっている。(「習志野教育百年誌」)

 佐倉の玉谷俊郎さんは前述したように、「捕虜と日本人は和気あいあいで身振り手振りで話し合っていた。」と言っている。

 ロシア捕虜の陽気さは民族性というより、収容所の中での生活状況と待遇、日本人の対応の反映と受けとっていいように思える。取材した記者も「捕虜の性質は一般に何れも無邪気で、手が器用で親切で、互に間は些かの距がないように見える。」といっている。それを保障するような収容所での配慮と条件・扱い方があったように思える。

 捕虜達自身が収容所生活や日本人をどう見ていたかということは、習志野の場合、入所していた捕虜の手記が見い出せなかったので知ることができなかった。ただ、樺太捕虜のうち非戦闘員が1905年頃解放されて帰還する時に、次のような感謝状を残しているのでその一端をうかがうことができる。

 「貴収容所に在りたる我等衛生部員一同は、収容中我等を厚遇せられたる御厚意に対し深き謝意を表し、併せて貴官の万歳を祈るものなり。

 願くは部下の将校通訳官に向て、其懇切なる取扱に対して我等衷心より出づる深き謝意を伝えられむことを。特に、我等を習志野より神戸に護送の労を執られたる指揮官及通訳官に満腔の敬意を伝へられ度、尚部下の兵士諸君にも一同の謝意を通ぜざらんことを。尚新聞紙に掲載して、一般貴国民が我等に寄せられたる深き同情と親善の態度に対する我等の謝意を貫徹するに遺憾なからしむる様、御取計あらんことを切望す。

 1905年7月16日 ピョールドベリヤーエフ

習志野俘虜収容所長森岡大佐殿」

 当時の軍と権力の捕虜に対する方針も後世とずいぶん違っていたようである。習志野に捕虜が来る直前に、千葉毎日新聞に「俘虜に対する県民への注意」というものが掲載されている。長いけれども全文引用しておきたい。

 「俘虜取扱いに関する規程は、西暦1899年7月29日和蘭海牙条約に基く。即ち現今、東西文明国が共に一致協約せる陸戦法規の一部なりとす。
 抑も俘虜は、元と其既属国の為め身心を抛ち、戦闘に従事し不幸傷病に罹り、又は戦闘力尽きて我軍門に降りしものなれば、義侠を以て基本性とせる我国民の如きは特に、之を寛待優遇し、一は国民の品位を表彰し、一は其不幸を憐愛すべきは当然の事とす。況んや同朋中俘虜となりて、現下敵国に在るもの有るに於てをや。既我輸送船の奇禍に罹り国民血に泣くとき、尚且我戦闘員は「リウリック」号の俘虜を優遇し、力を極めて之を救助したるが如きは、実に我国民精華の発揮せしものにして、内外の親しく賞賛措かざる所なり。人智の発達と共に国民の品性を崇め来りたる今日に於て、心有りて俘虜を冷遇するが如きものは信じて疑はざる所なれ。其彼我国性相異り、言語相通ぜず、為めに性意の疎通を欠き、殊に逆境に在りて快欝日を消するの時に在りては、無心に於ける些末の行為も、彼等をして時に多大の感情を害せしむる事なしとせず。今一に一般に注意すべき事項を摘記すれば左の如し

  1.  俘虜は和約締結の上は、速かに其本国に送還せらるゝものなり。故に之を冷嘲するが如きは、悪感は平和の後に尚在するの憂あり
  2.  俘虜は秩序及風紀維持に関する法則に服従する上は、宗教を遵行するの自由を有す。故に教派相異なるが故に、之を嘲笑するが如き事あるべからず
  3.  通行中囲繞、接近、指示、佇立、凝視するが如き事は、勤めて之を避けざる可らず
  4.  俘虜に対し大声を発し異常の音声其他戯を為すべからず
  5.  俘虜の娯楽の為の物品を投与するが如き事あるも、受けざるを以て意を為すべし

 概ね右の如くにして、近時聞く所に依れば、俘虜が輸送せらる途上、試に金銭を路上に投与したる。奇を好むの余り争ふて之を競拾せしものありと云ふ。右等は事少に似たりと雖も、国民の品性に関する事大なるを以て、頗る考慮すべき事なりとす。且つ戦勝祝捷会の時の如きは、勉めて彼等の収容地附近を通行するを避け、其悲嘆を増さしめざるは、国民徳義の然らしむる所なりと信ず」

 松山では収容所が慰問に名を借りて好奇心でロシア人を見ようとするのは戦勝国の国民として好しくない、慰問する者は誠心誠意その旅情を慰め、その境遇に同情を忘るなと訓戒したという。小学生には捕虜に接する心構えを時局教育の要項にもとづいて教育したという。それは、「戦争は敵の戦闘力を滅減することを目的としているのだから、戦闘力のない個人を敵視したり、敵国をあなどったりしないように教えること」、「敵国の捕虜や負傷者などを優遇する本旨およびその実例をあげ、これに関する心得方を具体的におぼえさせること」などであったという。(前掲『松山収容所』)

 習志野でも、大久保小学校沿革誌に残っている「捕虜に対する注意事項を生徒一同に訓話せり」とあるのも、それに類するものであったと推測できるのではないか。

 捕虜に対する「寛待優遇」が習志野収容所の中でどこまで行われたかは、前述のことからかなり判断できるが、次の全国の収容所に発せられた訓示からもうかがうことができる。

 「俘虜の取締

 本邦各地に俘虜として収容せられる敵国軍人中に、無知蒙昧にして事理を解せざるもの多く、中には葱の一把、胡瓜の七八本も生のままに噛り尽して平然たるものあり。取締員が之を制止すれば、彼等は日本政府我等に野菜及果物を吝しみて与えずなど、不平を唱え、又自由散歩を許せば、狭斜の地に出入して放縦度なきものもあり。之に戒飭を加ふれば散歩も容易に許さざる乎と呟くなど、兎角苦情の起り勝ちなるに掛官も当惑し、因って其筋にては収容所長に対しても、若し衛生を害すべき恐れある食物を取らんとするものある時は充分に衛生の重んずべきことを説き聞かせ、又放蕩を事とするが如き輩に対しては其同胞の多くが猶、現に満洲の風雨に暴露せる今日、大いに顧みる所あるべきを説諭する等、総て彼等をして衷心より悔悟せしむるの方針を取るべき旨訓令し、猶一方に於て、彼等に支給する食料等に就ては充分の注意を加へ、万遺漏なきを期すると共に、若し彼等に対して我寛大の取扱になれ我儘勝手の挙動を為し、又当局者の指揮命令に反抗するものあらば、毫も呵責する所なく厳重に処分すべし。」

 このような捕虜に対しての態度は戦場においても行われていたようである。むしろ戦場での日露両国兵士の、互いの捕虜に対しての扱いが内地にも反映した面があるように思える。津田沼町より出征した笠川鉄蔵は陣中よりの手紙(笠川家所蔵)で次のように書いている。

 明治38年2月8日奉天北方での激戦に歩兵として参加したが、相方の死傷者ははなはだ多く、「第一三中隊など将校全滅・指揮官として残る曹長1名下士卒残るは4分の1位(中略)諸隊は総て如斯次第」という壮烈さであった。鉄蔵自身擦過傷にすぎないが2発の敵弾を体に受けていた。その後、旅順に戻って占領した旅順の元ロシア兵舎に宿泊するのであるが、「露兵は我に握手の敬礼を為し、言語通ぜざるも恰も『オース』の如く手つきをして種々の雑談をなし、彼等は我等に砂糖、煙草を恵与し、敵ながら互に愛情深くなり。嗚呼敵も吾々同様、戦するは一個人的ならず皆国家の為、郷里に親愛なる親兄弟妻子に離れ、貴重なる生命を犠牲に供し居る者と思へば、実に感涙に咽びました。茲に長く守備し居るは愉快になる事と思ひ居り候迄、豈計らんや(後略)」とある。

 逆にロシア軍のもとに捕虜となった今井亀吉(君津郡吉野村中出身)は、戦死したとばかり思い込んでいた家族に久し振りに手紙を送ってきているが(千葉毎日新聞掲載)、ロシア兵の日本人捕虜扱いについて、次のように書いている。

 「拝啓、皆様には定めし御壮健の御事と奉察候。私は去る1月24日、前哨として敵陣近く勤務致し居候処、翌25日午前3時頃より敵大集団の夜襲を受け、為めに当小隊は抜く可らざる重囲に陥り、半数以上の死傷を出し、私自身も5カ所の重軽傷を負ひ候(中略)生存者は遺憾にも悉く敵に収容せらるゝの止むなきに立至り、自分等負傷者は直に赤十字社に容られ申候。而して、一旦武具を解きしより流石は文明国の、握手の礼を以て迎ふるやら煙草を送るやら、殊に自分等負傷者に対しては其待遇の懇切なる実に驚く許りに有之。為に昨今傷部殆んど平癒と相成申候。近々全癒の上は、モスコー方面へ護送と可相成と被存候(後略)」

 殺し合い、戦いあった兵士同士も、戦いが済んだら人間同士である、と握手し慰め合う姿が日露戦争では一般的であったことが『日本捕虜誌』(長谷川伸著)の中でも多く実例を挙げて示されている。この書物の著者は日本の古代から近代までの戦史上日露戦争での捕虜について最大の紙数をさいている。そこには感動的な場面や誇るべき美談が厳密な資料にもとづいて紹介されている。著者は、そのねらいについて「日本に関する捕虜に就いて、世界無比の史実を闡明し、どの程度かは知らず残存する日本人の間に、語り継ぐべき資料を遺さんとした。その故にこの草稿を地中に埋め、降りそそぐ戦火を避けたのである。(後略)」と述べている。

 小沢健志氏は日露戦争捕虜姫路収容所のアルバム(雑誌「アサヒカメラ」)の特集に寄せて、「日露戦争は明治32年(1899年)のハーグ条約 — 日露を含む約310カ国が参加した — のあとはじめてのケースとして各国の注目の的であったことと、日本自身の先進国への仲間入りへの期待が各国から武士道的と賞された。」と述べている。(終り)

調査資料

『千葉毎日新聞』(明治38年県立中央図書館所蔵)

『東京日日新聞』(大正4年6月24日付県立中央図書館所蔵)

『軍医の観たる日露戦争』西村文雄著

『松山収容所』才神時雄著

『日本捕虜誌』長谷川伸著

『ぼうふらの記』加藤俊雄編

『習志野市教育百年誌』

笠川鉄蔵陣中よりの手紙(笠川家所蔵)

「日露戦争捕虜姫路収容所」(『アサヒグラフ』)

『日本の歴史4』(明治維新、家永三郎編ほるぷ出版)

『日本現代史大系 — 軍事史』(藤原彰著)東洋経済新報社

『日本騎兵史』(佐久間・平井編)

地図(明治15年、明治36年、大正7年、昭和26年、等作成のもの)

第5章2枚目の写真は、毎日新聞社所蔵

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