捕虜の生活

更新日:2022年09月29日

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更新日:2010年12月16日

 それでは、ロシアの捕虜たちは収容所の中でどういう生活をしていたのだろうか。松山収容所のように豊富な資料もないし、姫路収容所のようなアンセル・アダムス(アメリカの風景写真家)のアルバムも残っていない。やはり、当時収容所に入って観察した新聞記者の報道に頼るほかない。

 捕虜15,000という人数は、当時の津田沼町(習志野市の前身)の人口が約6,000人、習志野騎兵旅団が総数3,000以下であるからいかに多大なものであったかが分る。現在でいえば、急に大団地が作られたようなものであり、ロシアの大きな町が習志野に移ってきたようなものでもあった。

 竹矢来に囲われ、日本兵に監視されていてもこのロシア人の大集団は自立的な生活共同体を営み、ロシア帝国の複雑な社会を投影していたのであった。というのは、25棟を1区とする区が3つあったというが、第一区と第三区は欧露人、第二区にはその他の人種と分れていたのである。第二区ではさらに人種ごとに各棟に分けられていた。ちなみに、捕虜の人種別数は欧露人13,309人、ポーランド人1,025人、タタール人(蒙古系)236人、ユダヤ人215人で、人種ごとの生活習慣は異り、敵視が激しかったようである。そして各棟ごとにロシア兵の最高軍官である軍曹か曹長が取締りを行い、各区ごとに炊事場、洗濯室、遊戯室、酒保、寺院をもち、独立した生活単位をなしていたのである。前述したように、収容所として、伝染病院も備っていたのである。

収容所の正門前から収容所の中を写した白黒写真

 食事は当初は日本人が作って配っていたようであるが、4月中旬には区ごとに交代で自炊に移っている。メニューは朝食にパンと麦湯(時々紅茶)、昼食に菜を入れた米飯とスープ、夕食にパンとスープだったようである。副食には豚肉・魚肉・野菜等々で、主食のパンはとうもろこしで作った黒パンで、記者がかじってみるとなかなかの上等だったという。8月頃の記事に次のようなものがある。「 副食として薩摩汁の給与があったところ大喜びで舌鼓を打ち、折にこういう御馳走に預りたいと掛のものに給与を促してゐる 同地の産物の薩摩芋も彼等の好物の1つで、その他真桑瓜の嗜好は驚くばかり。1人数本も食ふも尚飽足らず、掛のものも適度に支給しているそうである。」

収容所内で撮影された白黒写真

 1日1人当りの食費は、松山収容所で将校50銭、下士卒25銭であった。その頃米1升(1.5キロ)は10銭で町の食堂のカレーライスと同じ値段であった。酒1升(1.8リットル)40銭でアメ玉1文で5つも6つもくれたということである。当初は下士卒で14銭9厘であったが、これは日本兵の食費と同じ値段であったらしい。捕虜の間に不満が出て値上げしたそうである。ちなみに、戦時捕虜だったロシアでの日本人捕虜の食費は1日5銭から9銭だったという。(前掲『日本捕虜誌』)佐倉収容所では将校60銭、下士卒20銭であったというから、習志野では全員20銭であったと思われる。

 また、彼等が酒保で欲しいものを随時買うことができたのは本国からフランス大使館を経由して送られてくる給金があったからである。毎月下士に1円50銭、上等兵1円、兵卒に50銭である。旅順の捕虜には1人15円の恩賜金が送付されたこともあり、ふところ具合が良く羨しがられていたようである。

 衣類は千差万別であったらしいが、我国より給付した浅黄色の服を着ている者が多かったという。1週に1度は入浴し、汚れていなかったという。また、「収容所の衛生は間然ある処なく行届きて、病者も僅に指を屈するに過ぎず。間にある患者は多くの脚気病なりと聞けり。」とある。時には天然痘発生の心配もあったらしいが、1905年9月下旬頃収容所の病院で入院していた者はわずか38名ばかりにすぎなかったようである。服薬人員は9月下旬頃で421人、11月下旬で488人、主なる病気は消化器系病気、外被病、眼病、呼吸器系病気であった。収容所での病没者は最終段階で34名にすぎなかったようである。また、「之等死亡者は、一に丁重な故国の葬式に依って、習志野陸軍墓地に埋葬され、皆永遠の安息に入ったのである。」

 彼等の毎日の生活の中心の1つは、三々五々構内を散歩したり、談話したりすることと遊戯であったらしい。「其遊戯は多くはカルタ、トランプ、ベースボールの類にして余念無く楽しみつつある小供のごとし。中に器用なるものは木竹の片をもて楽器をつくり吹き鳴して遊べるものあり。無邪気にして楽天的なると天涯万里の異域に故国を慕ふ人とも思われぬ程なり。」。のちになると玉突きが盛んで手製の玉突台が1棟ごとに1、2台あって、5人から10人が相対して興じていたという。

 しかし、中には監視の目を盗んで賭博をし、罰せられる者もあったという。

 また、「俘虜の中に隠芸に巧みなる者あり。慰問者の前にて鳥の鳴き声、犬猫の鳴き声などを真似、その唇を動かさず咽喉にて真似る状、真に迫り、猫も亦三舎を避くべし、又俘虜収容所に来りて自然に習熟したるものと聞きしが、日本語にて何十何円何銭何厘なりと勘定を読み上ぐる風、全く日本人と異ならず。音声頗る明晰にして、聞く者をして感嘆措く能わしむ。」

 時には「天高く月清く澄める夜などは、仰いで故国の空を打ち眺めつゝ三々五々手をひき合っては旅愁を慰むるらん、1人が手製の楽器にてスケッチマーチ又はダンスマーチを奏すれば、他は調子に連れて面白く踊り回っては歓声をあげて居る。」というようなこともあったということである。

 彼等の生活のもう1つの中心は礼拝であった。各棟ごとに礼拝堂は立派な神壇が飾られ、暇ある者はその前に跪きて熱心に拝んでいた。日曜にはキリストの聖像の前に集って讃美歌を歌ったという。ニコライ教会堂(お茶の水在)より祭司藤井氏が時々訪れている。また、彼等の信仰心があまり厚いので日本人が礼拝堂に入る時も必ず脱帽の敬礼をしたという。

 人種のちがいは宗教面で極めて厳格に現われたようで、教会は各棟各区ごとに異にしたようである。ちなみに宗教別人数は露国正教13,236人、天主教(ポーランド人)1,215人、新教(ドイツ系ロシア人)94人、回教(タタール人)240人、ユダヤ教215人であった。

 ロシア帝国の従属民族の差別支配はロシアの軍隊の中にも反映していて、その対立も激しいものがあったという。8月16日樺太捕虜が到着したとき、ロシア人は白金または金の指輪をはめ、服装も立派なものであったが、タタール人やポーランド人は冷遇され服装はみすぼらしく、見るも気の毒であったということである。

 とくにユダヤ人への差別と、ユダヤ人との軋轢は大きく、7月中旬に大事件が起きている。その事情は次のようなことであった。ユダヤ人が警備係官から興行権を得て「日露戦争」という演劇を演じたのである。入場料はユダヤ人は無料、ロシア人は5銭、立見料3銭である。彼等は大喜びで上席はたちまち満席となり、木戸5銭のところ10銭も出しておしかけてくる者さえいた。ところがその内容が序幕早々ロシア軍が散々に敗北潰走するという見るも痛ましい場面ばかりであった。これはユダヤ人の本国での恨みや、収容所で多数の横暴を強いるロシア人への不満の現われであったらしい。ロシア人は憤怒に耐えず、皆退場してしまった。ところが消燈の後、深く寝静まった頃、1,000余人のロシア人が隔ての矢来を打破ってユダヤ人の区域に打ちこみをかけた。ユダヤ人の方も予期して構えていたらしく大乱闘になったのである。日本の警備隊は捕虜の反乱と思い込み、非常ラッパを鳴し実弾込みの110数挺の銃を空中に向けて発射し鎮めたという。深夜の出来事なので近辺の巡査も応援に来るなど、大へんな騒々しさであったという。

 習志野収容所は将校のいない下士卒の集団である。軍隊の階級差が少ないということであり、本国での出身社会階級も農奴、労働者、小商人等の下層であったと考えられる。それでも貧富の差はあり、生活上の必要からも、彼等の間で商いや賃労働を行う者があった。酒保からタバコやみかんなどを割引してもらって仲間の集る所で露店を開く者があった。また、パン製造所で手伝いをして8銭づつの工賃を得たりする者もあった。さらに、仲間の不用品を集め、修繕したり、仕立てたりして売るせり市を行う者もあったという。

前列の椅子に座っている数名の男性と、後列に立っている数名の男性の白黒集合写真

 収容所外からのロシア人の出入りも認められていたらしく、6月23日アメリカに帰化していたロシア人医師ニコライ・ラッセルが、捕虜中の主だった者を集め、悲壮痛切な口調で反ロシア政府の演説を次のようにやったという。

 「欧米諸国何れも人民の権利を尊重し、其参政権を認めつつあるに、独り我露国に在っては毫も之を尊重せざるのみか、却って人民を虐待するを常とする。今回の戦闘の如きも固より武断派の頑迷なるに基因したるものにして、露国国民の利害と何等の関係あるに非ず。諸君が剣をとって敵を駆逐せるは是祖国の為に尽力せしものにあらずして、頑迷者輩の欲望に供せられたるのみ。露国為政者にして尚反省するなからんか、異日芬蘭・波蘭・高加索等は各自独立の旗を翻し、西伯亜の?野に列国の分割する所となるや必せり。故に諸君にして祖国将来の長計に想到せば、須らく此際、現政府を顛覆して立憲政体を創造せざるべからず云々。」

 松山収容所でもイギリス・ドイツ・フランス・ロシアの社会主義者より、収容されていた捕虜のために「社会主義テキスト」の寄贈の照会があったというが、陸軍省はいかに敵国の兵士であっても、自国の政府に敵対するような観念の書籍の交付は徳義上なしえないとして返戻したという。(前掲『松山収容所』)

 ニコライ・ラッセルの演説の影響か否か分らないが、帰国の際ポーランド人やユダヤ人の捕虜の一部は本国に帰ったらすぐにアメリカか日本に帰化するという決意を語っていたという。いずれにせよ、ロシア本国の革命前夜の空気が日本にいる捕虜たちにさえも伝わっていたということであろう。

 捕虜たちは故国への通信を検閲のうえ認められていた。当初の4月6日時点で2,020名が手紙の発送を願い出ているが、その手紙の大部分は日本における待遇の良さと、生存に害なく、日本人よりシャツなどを贈られたことを書いていたという。

 しかし、彼等は収容所に満足し切っていたわけではなく、いくつかの事件を起している。

 その1つは、ある日、日本の衛兵が捕虜に炊事を命じたところ、今日はロシアの祭日なのでいやだというので、捕虜の身でありながら勝手すぎる、命令に服せよ、と両者が言い争っているうちに捕虜たちは多数をたのんで騒ぎ出したので、衛兵は抜剣し、3人の捕虜に負傷させたものである。その他、脱走を計った事件もあったらしいが、具体的には記事を探し出せなかった。1905年4月末の時点では厳刑に処せられたものは1人もなく、犯則者2名が営倉数日に処せられただけだったという。

 もう1つの大きな事件は、1905年9月5日のポーツマス講和条約の国内での騒乱に付随したものである。この講和条約に対する国民の不満は日露戦争の国内矛盾の爆発として現われ、日比谷焼打事件となったのであるが、9月7日には千葉県内にも波及してきている。千葉市内での講和反対大演説会でも会場立錐の余地のない程の参加者があったという。その日、千葉裁判所が焼打ちされ、千葉警察署が放火されている。当時の新聞は「恐怖の町」という見出しで市内の騒乱の状況を伝えている。

 収容所では9月27日、1人の衛兵が捕虜の中に公安を害する挙動をとる者があったので制止しようとしたところ抵抗するので詰所に連行した。それを伝え聞いた捕虜たちが1,000人以上大挙して、連行された捕虜を取戻そうと衛兵所を襲ったというのである。第六中隊が隊任を備えて制止したれどもついに大騒乱となり数名の負傷者を出したのである。その委細については報道した記事がみつからず、それ以上は分らない。

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