ロシア捕虜の碑

更新日:2022年09月29日

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船橋市習志野町に習志野霊園がある。正門から入ると真向いの奥に3つの軍人の碑が並んでいる。真中にあるのが「日本軍人戦没者の碑」であり、向ってその左にあるのが「ドイツ軍人の記念碑」(ドイツ語で書かれている)であり、右にあるのが「ソ連軍人戦没者慰霊碑」である。その傍に次のような説明が書かれている。

 「記念碑

 この墓地は旧陸軍の墓地として遠く明治37、8年の日露戦争当時の日本軍人戦没者の碑50数基をはじめ、西端のほぼ中央に第一次世界大戦におけるドイツ軍人戦没者の慰霊碑1基、更にその南端には不明確ではあったが、日露戦争時におけるソ連軍人戦没者慰霊の墓標があった。

 第二次世界大戦後放置状態にあった当墓地は旧陸軍習志野演習場に入植した開拓農業協同組合員が墳墓として使用していたが、当市は旧軍人を始め国際的意義の見地からこの異国の地に眠る両国軍人の英霊を祭祀し、併せて一般市民の利用に供すべく国有財産である当墓地の整備を計画し、昭和44年3月国からの貸与を受け、茲に三国軍人碑の移設・改葬を行ない船橋市習志野霊園と称し開設したものである。

昭和46年4月 船橋市」

移設・改葬前の旧陸軍墓地の状況はこの霊園の管理事務所内に写真で掲載されているので見ることができる。又、ロシアとドイツの捕虜の碑の建立に寄与された石崎申之さん(明治29年生れ、船橋市習志野町5の2396在住)からうかがい、知ることができた。石崎さんは終戦直後まで習志野陸軍学校の教官であった。敗戦後習志野原の開拓農民として旧陸軍演習地に鍬を入れることになった。当時陸軍墓地は荒れ放題になっていたのであるが、「木製の十字架が2つ立っておりもう1つが倒れて朽ちかけていた。これがドイツ捕虜の墓標であった。ロシア捕虜の墓標はなく、そこにあったという場所だけを伝え聞いていたので自衛隊に呼びかけて四角柱の墓標を立てた。」という。そして「敵にはあれど、亡き骸を鄭重に崇敬するのが大和魂である」という思いから、ドイツとロシア兵士の碑を建てることを船橋市と両国大使館に交渉したという。最初にドイツ兵士の碑ができ、昭和30年11月13日ドイツ大使館の手で除幕式が行われたという。

 習志野収容所で死亡した捕虜の数はドイツ兵はドイツ大使館によれば30名、ロシア兵士は自衛隊戦史研究室とニコライ教会堂によれば34名であったという。

 梅沢宇面さん(明治30年生れ、船橋市習志野4丁目在住)はドイツとロシア両捕虜に接した唯一の生証人であるが、両国捕虜の葬儀をその都度見てきた人である。梅沢さんの現在の家は終戦まで「原の一軒家」と呼ばれていた演習場の兵士相手の茶屋であったのであるが、陸軍墓地が近くに見えたのである。梅沢さんは、「ドイツ兵は火葬ですぐ遺骨は持ち帰ったが、ロシア兵は棺に入れ埋葬し10年ぐらい経ってから骨を洗って持ち帰った。」といっている。石崎さんも「墓地の改葬の時掘り返してみたが遺骨はなかった。」といっている。

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